メンバーの声

麦わらさんなぜカルト宗教と言われる摂理に通うの?


私は大学の時、比較文化という学科でそこそこ真面目に勉強をしていました。
それで、聖書を勉強したり、仏教やイスラム教について勉強したりして
普段接しない「宗教」を身近に学ぶ機会を持ちました。

 

そうする中で自分が思っていたような「宗教」のイメージが崩れていくのを感じました。

宗教はとても深くて、真理と精通していて、神秘的です。

 

そこから発生した文化は非常に奥妙で美術も音楽も優れたものが多かったです。しかし私の中で宗教に対する不信感があることは否めませんでした。学びとしては受け入れるけれども、自分には受け入れがたい。

 

そんな私がカルトと噂される摂理で信仰を持っているのはなぜでしょうか。
私は実際そんなに簡単に心を開けるタイプではないので、私が通っているここは
本当にカルトなのかそうでないのか、慎重に見て考えました。

 

今回は長々と心の中で議論した内容をそのままあからさまに
書き出してみようかと思います(笑)

 

摂理はカルトか?それともキリスト教か?

最初聖書を学んでいたときは、摂理ということは知らずにひたすら御言葉を聞いていました。
当時の私にとってもっとも不安だったのは、

「私は宗教にはまってしまわないだろうか?もし変な宗教だったらどうしよう。」

御言葉は驚くほど正常でしたし、「御名答~!」と叫んで回りたくなるような心中を見通す内容。

 

麦わらさん聞くたびに脱帽でした。(帽子は脱いでいません)

 

内容的には素晴らしい。聖書がこんな風に現実に飛び出してくるとは!!ところでここはキリスト教かな?プロテスタントかな?まあどちらでもいいけど。

と思って聞いていく中で、「摂理」と知るようになりました。

 

なので摂理に対してもっとも乗り越えるべき壁は、自分の考えに根強く残る
「宗教=危ない・怪しい」という図式でした。

 

なぜ「宗教=危ない・怪しい」という図式か?

宗教と聞いてもっとも先に浮かんでくる宗教はなんでしょうか。
御名答。あ、違うかもしれませんが、

「オウム真理教」です。

とはいえ私はその時まだ小学生でした。

小学生ながらに一番記憶に残っているのが、「しょ~〇、しょ~〇」という選挙BGMでした。

オウム真理教についてテレビで大きく取り上げていた内容を今でも思い出せます。

たぶん、あのテレビの影響がもっとも強かったでしょう。記憶はあいまいですが、オウムがどんな教理を話、何を信じさせていたか。空中に浮くとか、変な内容がありました。また壺だとか、変なビジネス商法をやっていた内容もありました。

とにもかくにも、聞いていて違和感ありすぎる内容で、子供ながらに気持ち悪いと感じたのを覚えています。

オウム真理教がカルトと思ったのは何か?

私が定義するカルトとは、ざっくり言うと「気持ち悪いかそうでないか」です。
気持ち悪いの中にすべてが入っていますが、譬えを上げるなら、

 

「その教理がありえるのか、ありえないのか」「お金が絡んできていないのか」
「無理やりなのか」「過ごしているメンバーが正常なのかそうでないのか」

 

これが、私の中で気持ち悪い部類に入るなら、やばいこれはカルトかも、と思います。

人によって異なるかもしれませんが、私は筋が通っていない内容に関してとても敏感でした。

私が賢いからではなくて、単純に「怖い」から避けるのです。

その言葉に洗脳されそうだし、洗脳されている間にハマってしまい、抜け出せなくなりそうだからです。

摂理はキリスト教か?

摂理の公式ページにも表記してあるように、摂理は「キリスト教福音宣教会」とも言います。なので、完全にオリジナリティあふれる御言葉ではなく、土台は「聖書」。そして、当然「イエス様」についてもたくさん学びました。

私はイエス様が大好きで、新入生の頃はなんとか親しくなろうとして「イエスさん、イエスさん」と呼んでいたほどです笑

 

先生は聖書を土台にして、より具体的に御言葉を伝えて下さいます。

何よりも先生が一番聖書を読み、また神様が喜ぶだろうなあと思う行いを一通り子供の時からやってきているのが印象的です。

イエス様のようになりたい!そのような純粋な心で、人々を愛して神様を伝えるために努力され、人々がいても神様だけを見て讃美される姿は圧巻です。

本当に神様が大好きでイエス様だ大好きなんだ!と先生について知った時に、その無邪気さがキラキラ輝いて見えました。

 

とはいえ、キリスト教か?という言葉に「イエス!」と答えても、違う!と言う人はいらっしゃいます。

まるで、4000年間神様が来ることを待っていたユダヤ人たちが、イエス様が新しい御言葉(新約聖書)を伝えたとき否定しましたが、実際は旧約も新約も神様が広げる歴史に変わりはありませんでした。ユダヤ教とキリスト教のもとをたどってみたら同じ「神様」を信じているのです。

ただイエス様がいらっしゃった当時、ユダヤ人たちはキリストと認めず、十字架に架けて殺した、というのが聖書に書かれています。

でも神様はその後も使徒の時代を広げ、日本にまで福音が伝わり、今は全世界に広がりました。これは、本当にすごいことです。

あんなに小さな地域から出てきたイエス様の言葉が今や全世界に広がったのです。しかもものすごい迫害がある中で・・・。

 

ユダヤ人たちがどうしてイエス様の話す御言葉を受け入れられなかったのか、いろいろありますが、大きなことは「モーセの律法」通りにイエス様が行っていなかったからです。

安息日は仕事をするなとか、姦淫した者は石で撃ち殺せとか、そういうことをイエス様は行いませんでした。まったく違う御言葉を伝えられたのです。

神様は本来「律法」のような世界に作りたかったわけではありません。

人間だって争いのない世界を作りたいと連合国をつくって戦争が起きないように努力するのに、もし神様が「律法」の御言葉で未来まで導こうとしたら、人間は争いばかりです。

イエス様はそうではない「愛と平和」について語り、さらに次元高く神様の歴史を広げていかれました。しかしそれを知らなかった人は、イエス様を反対し、迫害しました。

 

前述したように摂理も聖書を土台にしています。

でも、聖書を土台にして、新しい御言葉を伝えています。聖書の本来の意味を教えてくれるのが摂理で聞く御言葉です。

イエス様のときに伝えられた御言葉は謎が多いです。

比喩で意味が隠されていて分からないことも多く、神様を信じているといっても、神様についてわからないまま信じているのが現状です。

 

でもそうではない、はっきりとした御言葉を伝えられているのが、摂理で聞く御言葉です。だからキリスト教は土台ですが、実際のところ「摂理」というのは「神様の歴史」のことを言います。だから旧約についても、新約についても詳しく学びます^^

洗脳(マインドコントロール)について考える

皆さんはマインドコントロールって どんなイメージがありますか?

 

ある目的に向かって 誘導されている感じといいますか。いつの間にか取り込まれているといいますか。。

恐らく大部分の方がこの言葉を聞くとマイナスなイメージが多いと思います。

とくに日本人は洗脳と宗教を繋げて認識しやすいのではないかなと思います。私がそういう人の代表と思って書きました笑

 

マインドコントロールって、自分の心を相手がうまーい具合に操作する、そんな感覚があります。だから御言葉を聞きつつも自分は自分に問いかけました。

「おい麦わら。自分は自分を保っているのか?本当にここが正しいと思っているのか?」

そう考えて、何度も自分を客観的に見ようとしました。でもこれは、恐らく私だけでないと思うのです。うまい具合に操作されるとき、 私だけでなくきっとほとんどの方が

 

「何か変だな」(¬_¬)

 

という感じがすると思います。それは人間に「良心」が備わっているからです。

本当にこれが正しいのか、悪いのか見分けようとします。そして正しいほうを選択しようと考えが働きます。

自分にとっていい話、甘い話が出た時が危ないと思って身を固くします。

 

マインドコントロールって聞くと、「聞いたら洗脳される!」という非常に短絡的な響きがありますが、
実際は絶対にそうではないと思います。

みんな自分の考えがありますし、危ないところには行かないようにとたくさん教育も受けてきていますから、

 

マインドコントロールはそんなに容易いものではないと思います^^;

 

ちなみに麦わらさんが「この宗教は怪しいな・・」と思う基準をあげてみました。

この宗教は怪しいと思う基準について①

私は何かおかしいなと思うものの 共通点について考えてみましたが、
まず真っ先にあげたいのは

「強引さ」

変なことを教える組織は、どこか強引です。

泣いて人間の情に訴えかけたり、
金銭的な商法で勧誘したり
恐ろしい言葉で恐喝したり
雰囲気で釣ってきたり…

そんな感じがあります。どこかおごがましく、大胆で、強引です。

最初はニコニコして優しいけれども最終的には 「無理矢理」に信じさせる。

その人の甘い部分にうまくハマるように話しながら、そうでない部分はちぐはぐに繋げます。
私はそういう雰囲気一つ感じたらすぐに逃げます(笑)

この宗教は怪しいと思う基準について②

第二にあげたいのは

「大声で叫ぶ」ことです。

本当に正しいものは、静かに話しても十分説得力があります。

これは金です。純金です。本当に純金なら、さらっと端的に純金だと話しても、問題ありません。

しかし偽物を売る人はどのようにするでしょうか。何か「誇張」して話すし、「大きく」見せて、「絶対に正しい!」と主張します。

 

偽物は大声で叫ぶ、そういう印象があります。
そしてその中に、否応にも認めさせようとする 高慢さが見えます。

 

この宗教は怪しいと思う基準について③

もうひとつ 変だなと思う判断基準があります。

それは 「悪口」です。

私は悪口が好きではありません。

それは友達通しで話すときもそうですし、どんな人に対してもそうです。

もちろん麦わらさんも人に対して嫌だなもう!ぷんぷん!と思ったことはたくさんあります。

こなくそ!と不平を漏らすこともあります。(ごめんなさい)
でもそれを誰かに共有したり、広めたり、そういうことはしたくないし、それをする人はあまり心を開けませんでした。

 

悪口に単純な悪口はないと思っています。
悪口の中にいろんな思惑があるからです。

相手を蹴落とそうとする心もあるだろうし、 憎しみもあると思います。

相手と自分を比較して 自分が優位であるかのように思わせたりもします。

 

ましてや組織のトップ、宗教はどうでしょうか。

人々に敬われる大きな人であっても、 名誉と権勢を持つ人であっても、
相手のことを完全に知りもしないで むやみに判断して悪口を言う人は信じられません。

 

いや、信じちゃいけません(*`へ´*)!!プンプン!!

 

カルトで心配?「マインドコントロール」

会社や家庭の中にも「マインドコントロール」

マインドコントロールって宗教とかカルトとかに当てはめられて言われがちですが、私は会社とか家庭とかでもマインドコントロールなることってたくさんあると思うのです。

企業ごとに「理念」を掲げて会社を経営していますが、その理念に傾倒している企業によっては、それが「絶対」になって、会社での過ごし方だけでなく、精神までその理念のように作られてしまうこともあると思います。

仕事に対するマインドひとつも、もしそれが社内間で絶対的になるならば、それはすなわち「マインドコントロール」に繋がってもおかしくないと思います。

実際、会社によって人生がおかしくなって、うつ病になったり、自殺をする方がいらっしゃいますが、そういう悪い状況に追いやられ、命まで脅かされるというのは、「その精神を受けてコントロールされた結果」なのではないでしょうか。

 

ならば、マインドコントロールという言葉ひとつとっても、

「コントロールされるのが問題というよりも」「どんな精神にコントロールされるのか」のほうが重要になってくると思うのです。

 

どうしたって人間には「精神」がつきものです。

長年生きていけば、その分「精神」が作られます。

でもその精神も「各自」になるから、誰の言葉が正しくて、正しくないのかわからないまま、直属の上司の精神、親の精神などの影響を受けて生きることになります。

つまりこれもマインドコントロールされているといってもおかしくないと思います。

 

でも問題は「どんな精神」を「あなたは受け入れましたか?」というところが大きいと思うのです。

結局人を生かす精神ならば、コントロールされてもいい事を行うし、いい事を話すし、周りにいい影響を与えます。

 

でも人の価値を失わせる、殺す精神は、宗教と関わっていても関わっていなくても「カルト的精神」だと私は言いたいです。

私は人を死に至らせる精神こそ「カルト」と呼ばれていいと思います。

でも人を生かして、その人が本来の自分を取り戻して本当に生き生きと生きるならば、マインドコントロール自体が悪いのではないと思います。

いっそその精神にコントロールされた方が状況が良くなるからです。

 

ただ「マインドコントロール」という言葉に怖がるだけではなく、「どんなマインド(精神)」なのかを見て確認して、本当に良いものなのかそうでないのか吟味する必要があると思います。

 

結局摂理はカルトなのか?違うのか?

摂理公式サイトより

カルトかどうかについて、ここまで私の思ったことを基準にして様々にお話ししてきました。

摂理では、今私が懸念した内容はまったく見受けられません。

摂理にこのようなことがないので 疑り深い私も良心の葛藤なく 頷いてついていくことができました。

一般的な「カルト」と私が思う「カルト」

宗教的崇拝。転じて、ある集団が示す熱烈な支持。(goo辞書)

カルトという言葉は一般的に「宗教的崇拝」を意味します。

つまり、そうですね、このカルトという言葉に摂理を当てはめるならば、たしかに摂理は「カルト」かもしれません。

だって、神様を崇拝していますから^^;笑

 

絶対神神様を崇拝することをもし「カルト」と定義するなら、このような集団はみんなカルトでしょうか?

そうしたら世界的にもっとも多いキリスト教は「カルト」と言ってもおかしくありません。

神様に向かう熱烈な支持は、摂理も変わりありません。

 

ところで、「カルト」と聞いてこの辞書のように考える人はごく少数なのではないでしょうか^^;

 

つまり、カルトという言葉に含まれている感覚、

つまり

「気味悪い」「気が狂った集団」「人間がすることをしている」「変な儀式をする」「お金を取られる」

などを含めて捉えている方のほうが大多数だと思います。

 

恐らく摂理はそういう「気味悪い」「気が狂った集団」「人間がすることをしている」「変な儀式をする」「お金を取られる」という感覚の上の<カルト>という認識で捉えられていると思います。

 

でも前述したとおり、そういうことがあったならば私は絶対に摂理に入りません。。

 

私が気が狂っているのかどうかは、ぜひブログを読んで判断していただいて構いません。

または他のブロガーさんが書いている記事や、YouTubeなどにアップされている摂理に通う方々の話をぜひ聞いてほしいです。

話す言葉が事実ですから隠す必要もないです。

 

私が思う「カルト」のざっくりした1つの感覚を話すならば、

「信じると、悪い方向に向かっていくもの」だと思います。

でも、このYouTubeに載っている方が話されているように、御言葉を聞いて、先生という存在を知ることで「本来の自分自身の価値を取り戻すことができる」先生から感じた神様の愛によって、苦しんでいたことや悩んでいたことが解かれた、というのは、

私が思うカルトという悪い感情とは逆なものだと感じます。

 

私自身も同じく、自分という存在があまりに泥臭く、濁っていて、ひねくれ者で、自分の矛盾を見て反吐が出る感じでいたところから、神様を信じて、先生という存在と出会って、「なんて純粋なんだろう」って思ったんです。神様の愛はひたすら大きく、こんな反吐が出そうな自分のことも真実に愛してくださっている。そして先生は、本当に純粋に神様を愛し、その愛を御言葉で伝え、スポーツや音楽、ともに過ごすすべての時間の中で伝えてくださっているということをはっきりとわかりました。

それで私自身の価値がわかるようになりました。自信も持てるようになって、こんなブログまで開設した次第です笑

違う観点からカルトを話すとしたら、カルトは「偽物」だと思います。もし「本物」ならば、実物を見せればそれで終わりです。

だからうるさく話す必要もないし、静かに話しても「うわあすごい!」と思うのが本物です。

偽物だから石に金メッキを塗って「これは金です!!」と叫びます。

 

それでは摂理は「本物」なのでしょうか?

 

摂理は本物?本物って何?

カルトではない、本物であるとは?①

本物という言葉の中には「偽りがない」という意味が入っています。「偽り」の意味を調べてみると以下のように出てきます。

いつわること。事実でないこと。うそ。  goo国語辞書 より

そしたら、偽りがないということは何で証明できるでしょうか。言葉はみんな達者ですし、肉である私たちは相手の心を全部わかることはできないので、明らかにできるのは神様だけしかできません。でも、何かしら偽りでないことを指し示すものはあると思います。

そのうちの一つが「辻褄が合う」ことだと思います。

だいたい偽りのものは辻褄が合いません。

話の頂点だけ膨らませて、前後左右はちぐはぐしていることが多いです。

私が摂理で御言葉を聞いて本当にすごいなと思ったのは、

 

「聖書の旧約聖書と新約聖書と現代」がすべてきれいに「繋がって」いて「辻褄が合う」内容だったからです。

 

私もひと時、プロテスタントのキリスト教に通っていた時期がありました。

そのとき友人から「アメリカから牧師さんがくるから、是非来てみて!」と誘われていて、試しに行ってみたのを覚えています。

しかし内容が「一部分」を取り出していて、かつ難しい言葉ばかりで聞いていてもちんぷんかんぷんだったのを覚えています。

周りの人はみんな「アーメン」と言いますが、私にはかけらも分かりませんでした。

聖句も一部分だけを取り出して話すのであって、旧約聖書から新約聖書までの流れや、時代がどのように動いて、どうしてこうなって、何を伝えたいのか、いろいろとわからないことばかりでした。

それで麦わらさんは後半ウトウトしてしまったのでした。

 

また、麦わらさんは以前関東学院大学に通っていましたので、キリスト教が必修でした。

それもいくつか取る必要がありましたし、礼拝への参加も必須でした。

聖書の解釈も聞きましたし、全て単位は取りましたが、どうも謎の部分が多くて、礼拝の内容も少し道徳的に心に響くのであって、神様という存在がどういう方で、何をしようとされて天地創造されたのか、正直よくわかりませんでした。

ただ「愛の神様」というところだけが大きく取り上げられるのであって、その周りのことは繋がりもなく、ピンポイントなところしか見えませんでした。だから、宗教不信のあった麦わらさんは簡単に信じることができませんでした。

 

摂理で御言葉を聞き始めた時も疑いました。

むしろじゃっかん上目線で「さてどういう御言葉だろうか」と聞きに行っていました。

ところが、摂理の御言葉は旧約から新約までの流れもしっかりとわかるし、旧約と新約のどちらの聖句を開いても、結論まですっと理解ができました。

今まで御言葉を他で聞いてきたからこそ、驚くほど理解がしやすい御言葉でした。

 

麦わらさんはそれから自ら1年くらい通い続けて最後まで聞くようになったのでした。

カルトではない、本物であるとは②

 

「説明が難しくない」ことです。

上に続く内容にはなりますが、「説明が難しくない」ということは本当に重要でした。

どの学問も専門分野を極めた人ほど小難しい単語を使い、専門ワードを使いたがります。

その気持ちは麦わらさんとーってもわかるのです。笑

というのは、私は一時期小説家を本当に目指してみようと思っていたのですが、小説も難しい言葉が使われるんですよね。

新聞も同じく、ちょっとこれ普段生活の中では使わない言葉だけど、文章にするとかっこいい、的な言葉があるんですよね。

 

そういう言葉に憧れて、あるとき単語帳を買いました。

当時の日記帳を見ると、、本当に嗚咽が出るほどものすごい内容なのですが、当時単語帳を用いて文章をつくったことがありました。

(ちょっぴりブラック時代の麦わらさんの日記を公開しちゃいましょう)

見境のない空間をメインに人々の葛藤を描きたい。

そこには妄想が入り交じる奇怪な幻想世界が含まれており、現実の中にも理想や夢が見えてくる。

私くらいの年代が抱える未来に対する希望と不安。現時点の苦悩。(省略)心の内をテレビやゲームや飲み(飲み会)の中で吐き出して発散させて忘却の海に沈み、ふと虚しさに襲われる。

手に入れたくても手にはいらない世界を憂い、成功者を僻み罵倒し何もできない自分に憤り落胆して酒を飲み、恍惚とした世界で我を失い言葉を忘れ、眠りの底辺で外界を遮断するも・・・

過去の麦わらさんの日記の抜粋(当時2011年10月1日)

ね、すごいでしょう?笑

今もブログでこんな風に日記を書いていますが、当時のような単語はもう使っていません。

これだけ見ても、本当に自分はさまよい苦しんでいたことが見て見えます。

わけわからないですよね。言葉も単語も、「我」とか使っちゃうし。ほんと危なかったです・・。

 

兎にも角にも難しい言葉を使いたがりました。

どう伝えようかと悩んだ時、私は難しい言葉が使えるようになって小説が書けるようになりたいなと思ったのでした。

政治も医学もどんな分野でも、専門家は難しい単語を用いて話したくなります。

でも鄭明析先生は違いました。

むしろ「生活の単語」を使って「相手にわかる文法と単語」を使って話してくださいました。

先生の母は生きていた時、先生が話すのを見て、いつもこのように話しました。

「あなたは話を分かりやすくする。あなたの一番上のお兄さんと二番目のお兄さんは易しい話も難しく話すから、聞いても難しい」と言いました。

それで「知識がたくさんあっても『表現』がうまくできないからです。

また『お母さんに合う文法と表現』を使わなければならないのに、そうしないから、聞いて分かりづらいのです。

たとえばお兄さんたちは『物が存在する』と言うし、私は『物がある』と言うから、私の言葉のほうが分かりやすいのです」と答えました。

そうしたら母は「どうして易しく言えるのに難しい言葉を使うのか」と言いました。

どうして「難しい表現」を使うのでしょうか?そうしてこそ相手が「学のある人」と認識するからです。

それで、母に「イエス様は『生活の単語』をたくさん使ったので、よく分かりました。

それが最高にうまく話したことです」と言ったら、
母は「あなたの祈りは『私の心』にすうっと入ってくる。お兄さんたちの祈りは『心の戸の外』でうろうろして終わる」と言いました。

説教をするにしても、話をするにしても、祈るにしても、<相手が聞いて分かりやすい言葉>で表現してあげてこそ、

その言葉が「心の中」にすうっと入っていきます。 (主日礼拝の御言葉より)

よく考えてみたら、易しい言葉を用いて伝える方が難しいことだと思います。

難しい言葉を使って自分のわかりやすい単語で表現したほうが、相手からも「学識がある」と思われるし、自分も使い易いからいいです。

でも鄭明析先生はそうはしなくて、相手がわかるように易しく伝えてくださいました。

イエス様もそのようにされたと話していました。だから無信仰で聖書に無知な麦わらさんもすっと理解できたのだと思います。

カルトではない、本物であるとは?③

 

「言葉だけではない」

これが本当に大きかったです。

鄭明析(チョンミョンソク)先生がすごいのは、必ず「行い」が伴っていることでした。

人は偉くなればなるほど、言葉だけ、指示するだけになりがちです。

私もそうです。仕事で少しできるようになると、できない子にやらせようと思って自分は指示だけすることが多かったです。

 

でも先生は誰よりも先頭を切って現場で行いました。

 

聖地月明洞の開発も、先生自ら先頭を切って岩を積み、芝生を植えました。

また、メンバーたちの面談の依頼も、依頼があった人の分どんなに夜遅くなっても必ず時間を出して面談をしてくださいました。

自分が辛い状況よりも、相手が辛い状況を見て、話をきいてあげ、食事もしてあげ、もてなしてくださいました。

それをたった一人にではなく、多くの人にされたから本当にすごいことでした。韓国人だけではなく、日本人も、他の国々の方にも・・・。

 

そんな先生の「行う」姿に、多くの人が心を改めたという話をたくさん聞きました。

私もそうです。麦わらさんは絵を描くことが好きでしたが、先生のように隙間時間を使ってでも練習し、描いたことはありません。

その努力は一目瞭然でした。子供から大人までが驚嘆します。

行いの結果を持って、「あなたたちもやってみなさい」と話し、「このように神様も行われる」と話し、何もなかった月明洞が開発された姿を通して「あなたたちも自分を開発すれば、このように雄壮で美しく神秘的な自然聖殿のように変化する」と話します。

その行いは自分のためではなくて、神様を伝えるため、私達のため、でした。

最後に

鄭明析先生は、私にただ御言葉を教えてくださいました。体を近くして会ったことはありません。

私はただ、御言葉を聞いて、正しいのかそうでないのかを判断しました。

御言葉も人々を言いくるめるように話したのかというと、そうではありませんでした。先生は壺を売ったりよく分からないビジネスはしません。

まるでイエス様がなさったように、人々の心を分かってくださり、 心の病と体の病までも 御言葉と祈りで解いてくださいました。

 

摂理の御言葉だけでも 充分威力があります。

また、 先生の行いと やってきたことの中に、良心に引っかかるものはありませんでした。

誰よりも人生を貴重に過ごされていたし、どんな人に対しても人格的に接し、あなたがどれだけ大切で貴重な存在なのか、教えてくださいました。

自分の話よりも神様の話をたくさん教えてくださいました。

おごり高ぶる姿を見ませんでした。親を大切にしなさいと教え、人類の親のような神様を愛しなさいと教えてくださいました。

 

摂理で学んだひとつひとつは、私の心の貧しさを満たしてくださいました。

 

カルトについて、宗教については、今後もまたいろんな方向から書いてみますね(^^)
長い時間読んでくださってありがとうございました!

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