摂理

摂理の献金に抵抗ありました〜十分の一献金は捧げないといけないの?


「報道で話題になる十分の一献金って何なの?」
「献金は絶対にしないといけないの?」

十分の一献金についてよく話題になるのを目につきますので
これに関して記事にします。

麦わらさん
麦わらさん
私は摂理に来て神様を信じてから11年目経ちました。
チョンミョンソク牧師が服役中の時に教会に通い始めています。

献金の時間に捧げないとどうなるか

摂理の礼拝に出ると「献金」の時間があります。
いや、どこの教会にも献金の時間があると思います。

でも私は「献金」に対する抵抗感がずっとあって、
いつもなんか、義務感を感じながらその時間を迎えてしまいます。

「お金」って大切じゃないですか…?

月収が良ければまだいいのですが…

私は住民税ですら非課税対象になったことがありますから
お金がないひもじさを実感したことが多々あります。

なので、献金というと、ちょっと気持ち嫌だなあと思うことがあるんです。

でもまずはじめに払拭しなければいけないこと一つがあります。

摂理の礼拝の献金は

絶対に捧げる必要がありません」

「捧げなくても誰からも何も言われません

摂理で「献金」は絶対ではないんです。

お金よりも真心が大切

あくまで真心と感謝で捧げるものであって、
義務感や指導者の目を気にして捧げるものではありません。

聖書にもこのようにあります。

イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、
また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て 言われた、

「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。 
これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、
あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
(ルカ21章1〜3節)

この聖句を読んで、
神様が献金の”何を”見ているのか分かるようになります。

人は多額の金額を見て、あの人はものすごく献金している!
と思います。

でも神様は、献金の額を見るのではなく、
捧げるその心をご覧になります。

やもめ女が捧げた献金は、あまりにも微々たる金額…

1レプタ=日本円で約39円
レプタを二つとあるので、

おおよそ80円ほどだったのだと思います

そう思うと、人間には
献金で捧げる「真心」を測ることはできないな
と感じてなりません。

私たちには金額しか見えませんからね。
でも神様はその捧げる真心をご存知でいらっしゃいます。

神様にとってお金は必要か?

そもそも神様にとってお金は必要でしょうか?

もちろん

神様が「地上で何かをするためには」
土台となる”お金”が必要です。

神様を信じる人が集まる教会を建てるにも
”お金がなければ建てることは不可能”です。
そして運営するためにもお金は必要です。

だからお金は神様にとっても
必要なものであることには違いないと思います。

しかし
神様にとってお金が”一番”必要でしょうか??

違います。

神様は人間の愛を一番求めています。
天への真心と愛が、神様にとって一番うれしいことなのです。

だからどんなにお金の額が少ないんだとしても
周りを気にして、苦しく思う必要はありません。

一番は「真心の感謝」です。
お金が絶対ではありません。

 

経験談:感謝をお金で表現することに抵抗…

いろいろわかっていつつも
私は献金に対して前向きになれずにいました。

「お金が神様の何になるわけでもないのに、
なぜ捧げないといけないのだろうか?献金がむしろ私の感謝の表現の害になる」

「私はお金で感謝することに疑問だ!」

そう思っていました。

最初は真心で、と思っていた心も、
だんだんと義務化してきているのを感じます。

むしろ讃美してカホンを叩いている方が感謝感激を現すことができるから、
献金しない方がいいんじゃないかなって思いました。

でも、最近ようやく献金の良さを感じるようになりました。

本当に少しですが…
「神様がお金を用いれば、命を生かすところに使われるんだな。」
「また献金が、神様が願うことを成していくんだな。」

そう思えた時、お金を捧げる良さを感じました。
また献金で感謝を表現するという意味が、ちょっとずつ分かりはじめてきました。

またある日

転職して、お給料が出るまでは経済的にはかなりピンチだったんですが、
そういうときほどなぜか献金したいという思いが生じはじめたんですね。

神様に委ねよう。そう思ったんです。

だって私が持っている経済は神様のものなのだから・・・。

すると不思議と
経済に対する不安がなくなったんですよね。

そして実際、生活の中で多くの方が食の恵みや着るものの恵みをくださって、
困ることがなかったんです。

十分の一献金は必ず捧げるのか?

簡単に言うと

献金しなかった時もあります。
つまり強制ではないということです。

とくにお金にピンチというとき、信仰心がなければ
積極的に捧げたいとは思えないでしょう。

そういう時、献金を入れる袋が回ってきてもスルーします。

前述したとおり、誰かから何か言われることはありません。

それでもその分感謝を込めて
讃美を声高らかに捧げました。

また正直にお祈りして告げるようにしました。

「すみません神様、ちょっとお金ピンチですので、
今回捧げるとちょっと、無理やりになっちゃいそうで・・」

献金において

形式になったり、義務感になったり、
疑問に思ったり、辛く思ったり…

もしそうなってしまったなら
まずは神様に正直に告げることが大切だと思います。

スッキリ捧げられないものを
神様は喜びで受け取られる方なのかな?

そう考えてみて引っかかるなら、正直にそれを告げて
話してみたら、それでいいと思うんです。

私が同じことをやっても無理矢理になるから、神様は喜ばれません。

神様を宝石と黄金が輝く大豪邸(天国)に住まう
めっちゃお金持ちの主人だと思って見てください。

人が高額なお金を捧げるからと言って嬉しいでしょうか・・・?

神様にとって嬉しいのは
「感謝する心」「真心」です

 

鄭牧師の献金は本当に全部捧げるからすごい…

先生は十分の一どころか
全て神様に捧げられるから本当に驚きです。

先生が正真正銘、神様のことをちゃんと分かって
愛して生きている証拠は
「献金」だけ見ても分かると思います。

私にはそのようにはできません。
お金の額を気にしちゃうし、全額捧げるなんて、どうやったってできないです。

先生は、ほんとに、リアルに神様にすべてを委ね、すべてを捧げます。

これがどれほどすごい姿勢なのか

やってみた方だけが分かると思います。

 

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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]