今日は一日対話の嵐!というくらい、いろんなメンバーとあれこれそれこれ対話しました。
中でも印象的な時間は、「ごめんなさい」をした時間^^;
私は教会の「使命」(教会内のお仕事みたいな感じ)でいろんなことをやらせていただく機会が多いのですが、時々それが爆発することがあります笑
使命だけでなくても、”何か集中して忙しくなる”と、「ああ!それはごめん、ちょっと誰かにお願いして!」と言ったように、自分に向かう言葉の意図を読み取れず、自分にいっぱいいっぱいになって、サッと適当に返事してしまっていることがあります(T_T)
無意識にそういう対応をしていることがあるので、あとあと気がつくと「申し訳なかったなあ」と思います。悪気は全然ないのですが、あまりにも急を急かされる場面で、さらに新しいことが自分に降ってくると、もうてんやわんや状態になってしまうのですよね・・・(-_-)申し訳ないです。
でも、摂理の御言葉では、それをいつも解く機会が与えられます。「ごめんなさい」と謝る機会を神様がくださるんですね。
「みんな和睦しなさい」「対話をしてお互いのことを解こう」「ゆるしてあげよう」「相手の立場に立って考えてあげよう」
御言葉でそのように出るから、本当にありがたいです。
人間、気がつかないところでミスも出るし、良くしてあげたいと思っていても、うまくしてあげられないこともあるし、
完全にすべての人に愛で接することができる人が地球上にどれほどいるでしょうか・・・。
それでも神様はそうなれるように御言葉で教えてくださるし、先生はいつも見本を見せてくださいます。
「これこれこういう状況でできなかった」とちゃんと話してくださいます。それがすごいことだなって思うんです。
自分が悪かったと、しかも上の立場になるほどできるって、本当にいつも頭を下ろす気持ちでないとできないと思うんです。
「課長、部長、社長、さまざま肩書きがあると、部下たちはよいしょしてくれるし、盛り上げてくれたりもする。でもそれによって自分の本来の位置を失うようになり、ズレるようになる。だからいつも仕える心を持たないといけない」
これは先生から直接学ばれた摂理のメンバーがある集まりで指導者の心構えとして教えてくださったものです。原本は聖書です。
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。(マタイによる福音書20章25節)
何度かこのブログで引用する聖句ですが、上に立つ者はこれを実践しなければ人の上に立つべきではない、それくらいの御言葉だと感じます。
ほんとうに肝に銘じます。
成長すると、だんだんと人を任される立場になりますよね。そのとき、このような精神を失ってしまったら、ついてくる人を辛くさせ、苦しむようにさせてしまうばかりです。
私は仕えるのが下手くその人でして・・・^^;
ビビり体質で、立場が上の人に何か強く言われると、「怖い!!!」と敏感に感じてしまう人です。だからこそ、自分が上の立場になったらそのようにはしたくない、という気持ちが強いタイプです。
でも・・・今日みたいに「ごめんなさい」と謝ることが知らぬ間にたくさん積もっているんじゃないかなあって思います・・・。
もし私から傷を受けてしまった方、いましたら教えてください。そして対話したいです。
本当に悪気があってしたことはないのですが・・・そう思えないような感情を抱いてしまった方もやはりいらっしゃると思います。
神様の御言葉で「互いにゆるしあいなさい」
そうあるから、私も勇気を持って「ごめんなさい」が言えます。
今日わたしが「ごめんなさい」と伝えた時、
なぜか相手からも「ごめんなさい」が出てきました。
「いやいや!全然気にしてないよ〜!」というものだったのですが、そのあとお互いに「ありがとう」と笑顔で笑えるようになりました。
誤解は必ず解けるから・・・
対話して、ごめんなさいして、感謝する、そのような実践を続けてできるように心がけます。