私があることをしようとしたとき、とても不安がつきまといました。
「うまくできなかったらどうしよう」
「自分が今までちゃんとできなかったから、こうなったんじゃないのかな」
「今日やっても意味がないかもしれない」
「あの人の方が上手くいくのはなんでだろう。私がやっても上手くいかないかもしれない」
不安、心配、悩み・・・
どうしてこういう不安がつきまとうのかと、うなだれたい時があります。
私は考えました。どこからこのような不安が生じているのかなって。
考えてみたら、まず先に思い浮かぶことがありました。
人を意識している
(´・ω・`)
まだあったのかこの性格。
直したと思っていたのに、まだあるのかこの性格。
昔、ここでこんな風に意識してしまったな、やだな、と思っていた大きなことに関しては
ある程度気にならなくなりました。
しかし、そのとき意識していなかった範疇で、実は(無意識に)意識していたことが残っていました。
特に自分に自信がなくなるとき。
自分ひとりでやろうとするとき。
ありとあらゆる不安が生じます。
「あの人がやると本当にうまくいく」
そういう言葉を聞くと、あの人は本当にうまくやっているからだろうなあ。でも、私は今まで上手くいくこともないわけではなかったにしても、正直、私が行くことに意味がないような気がする。
そんな風に、人を意識すると「比較」が生じます。
比較は不幸の始まりだ。
以前御言葉で聞きました。
麦わらさん、頬をビンタして、気を取り直します。
ダメだ、そういう考え方!!ダメ!!
でも、一度そういう考え方が浮かぶと、途端に自信を失います。
私がそうやって自信を失いそうになったとき、
聖霊様がおっしゃってくださった言葉があります。
「足りなさを認めなさい」
・・・・・
・・・
(´・ω・`)
ああ、
たしかに。
この言葉が思い浮かんで、すうっと自分の不安がなくなりました。
自分の足りないところを認めたら、そんなに心で葛藤しなくなったのです。
腑に落ちたのでした。
今もブログを書きながら、様々な心がふうっと楽になりました。
天の前で、足りないところを全部打ち明けました。
自分がまだわからないと思っていること、心で感じている小さな矛盾を告白しました。
どうしたら完全に天の考えを持てるでしょうか。
人が栄えることも、自分が栄えることのように喜べないこともまだあります。
でも神様は、みんなが栄えて欲しいと願っているし、できる人はできない人を助けてあげなさいとおっしゃいます。
平和を求めていらっしゃるのに、何を自分はこんなにも躍起になっているのでしょうか。
それも、自分で認めきれなくて、躍起になっているみたいでした。
「足りなさを認めなさい」
人を意識するのも、人だから、当然あります。
それを治すのは、とても難しいことです。
また、人を意識して行うことは、ある方面から見ると、とても恥ずかしいことのように思えます。
だから認めたくなくて、でも、どこか無意識的にまだ意識していることがあります。
足りないからといって、神様は責めません。
むしろ足りないからこそ、私に頼りなさいとおっしゃいます。
私も今年最後のひと時、いろいろと胸を張って言えなかった素直な自分について
続けて神様に打ち明けていきたいと思います。