「虚しさ」をテーマに書き綴ってみていますが、今日はまた違う観点から書いてみます。
儚く虚しい人生をゲームから学んだ
私はゲームが大好きでした。一日に5、6時間やっても飽きませんでした。特に流行っていたのが「戦国無双」「三國無双」という歴史ゲームと「メタルギアソリッド」シリーズ。
スネークがおじいちゃんになるところまでやりました(知っている人は「あ〜」てなります笑)また、「ニーアレプリカント」ではものすごい神ゲーに出会った!と興奮していました。(知らない人は知らなくて大丈夫です)
そんなこんなでゲームが好きだったんですけれども、好きな分だけ、ゲームからも「儚さ」「虚しさ」を感じることがありました。
豊臣秀吉の言葉を通して
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」
戦国無双というゲームをしていて、一番心に残った言葉です。
これは豊臣秀吉の言葉です。
ゲーム中に自分がやりたい武将を選んで、各武将のストーリーを楽しむことができるのですが、秀吉のゲームのシナリオを通してこの言葉の意味を疑似体験をしました。
下から上に這い上がってきた豊臣秀吉。すべてを得たように思えたけれども、結局最期は「儚さ」を語って生涯を終えたんです。
私は豊臣秀吉が好きだったんですけれども笑
そのエピソードに携わるキャラクターもみんな好きでした。
でも、その秀吉に関わる人達の最期は、なんか結構虚しい感じで終わるのが多かったんです。ハッピーエンドにはならない話。裏切りの多い戦乱の世で、心を許せる友達一人作るのも難しい時代だったんです。
死ぬ思いをしながら手に入れた富も、明日死んだら意味がありません。
「たとい人が全世界をもうけても、
自分の命を損したら、なんの得になろうか。」
(マタイによる福音書16章26節抜粋)
全世界を手に入れたとしても、生きる目的が分からなければなんの意味があるのでしょうか。
ニーアレプリカントで一度死ぬ
やってみた人は分かると思いますが、ニーアレプリカントというゲームは、「虚しさの塊」みたいなゲームです(笑)
このゲームに出て来るどのエピソードも、人の死が近く、深く刻まれます。
非常に物語の背景が難解なので詳しくは説明できませんが、感情移入した人物がどんどんどんどん消えて亡くなっていくから、その度に「うわあ。」となって心にぽっかり穴が空く気持ちになりました。
書いていると、昔をいろいろ思い出してきました。いかんいかん、今は2017年だ。あのときは2010年。まだ摂理について何も知らないときでしたね。
そんな感じでいろんなゲームをたくさん遊んでいた麦わらさんでしたが、だんだんゲームに限界を感じるようになりました。
極めつけはニーアレプリカントという先程紹介したゲームの”本当のエンディング”なんですけれども(ネタバレ挟んで申し訳ないのですが)
このゲーム
本当の結末に至ると
「すべてのゲームのデータが消えてなくなる」んです。
つまり、自分が投資したすべてのデータが消えてなくなるんです。
ものすごい設定ですよね。ちゃんと物語的にもわけがあってそうなるんですけれども。
そのとき、投資したゲームの「時間=全部死んだ時間」になってしまったんです。これは文字通り、ゲームの流れ的にも「自分が死ぬ」というエンディングなんですけれども、同じく私の時間も全部死んでしまったんですよね。
それで、コレ以上のゲームはないなと思って、最後にやったゲームはこれが最後になりました。
時間が全部「無」になる体験を、神様が隠密に体験させてくださいました。
この時私は御言葉を5つほど聞いていたときでした。御言葉はむしろ「無」ではない「永遠の人生」について教えてくれました。
今生きている時間が、すべて無駄にならない生き方ができるということを学びました。
だから、ゲームと比較にならなかったんです。
ゲームが私に教えてくれたのは「虚しさ」でした。本当にそうでした。
どのゲームをやったとしても、最後は終わりがあります。
終わりがないゲームもありますが、私は終わりがないゲームが好きではありませんでした。でも終わりがあるゲームの最後は、いつも心がぽっかりする気持ちだけでした。
「あー楽しかった」「もう終わっちゃったな」「あぁあ」
・・・そういう気持ちでした。
空虚で儚く、楽しかった瞬間が、最後は全部消えてなくなる感じ。
もちろんゲームだからいくらでも始めることはできます。
はじめからスタートすることもコンテニューすることもできます。
でも私は、最後を知ったなら、それ以上やりこみたいとは思いませんでした。
ゲームを通して神様に出会う
終わりを迎える度に私は思いました。「私は今何を得たのだろう?」と。
そして終わる度に私はノートにまとめました。今このゲームをやって何を得たのか?ということをまとめていたんです。
とくに感動したゲームは、
そのゲームが伝えたかった意図みたいなものを汲み取ろうとしました。
そのときの自分は、「なんとかして何かを得たい」と切実でした。ゲームだとしても、何か深い、根本的な真理がないか探していたのです。
人生を変えたかったんです。世界を変える何かを探していました。昨日書いたように私は社会で起こる様々な事件を見ながら人生について深く考えるようになっていました。
私なりに現状を打破する何かを示せる人になりたかったのです。
結局その心を神様が一番ご存知でした。
まるで虚しさの極地で、崖の下を見ながら「ああ、この下に行ったら何もないんだな」と思っている私を、虚しくない場所へ行けるように神様は後ろからギュッと抱きしめてくださるように、「そうではない」と教えてくださったんです。もう崖の下を見ないで私を見なさいと言われている感じです笑
今を生きることの大切さ
今はゲームをまったくしません。「今を生きることの大切さ」をはっきりと教えてもらったから、ゲームをする必要はなくなりました。
今を生きることがあまりにも貴重だとわかったから。
ゲームを通して虚しさを学ぶ時間は卒業したみたいです。
絶対にみんな感じているはずです。ゲームを始めるときはワクワクするけど、
終わるときは”虚しい”なって。
人生も同じです。
まるでゲームみたいに、いろんな選択肢がある人生じゃないですか。でも終わりになって、自分のエンディングを迎えた時、まるでゲームのエンディングを迎えるみたいに、終わったらすっからかんです。
ゲームは面白かったな〜で大半が終わりますが、
人生の終わりは「面白かったな〜」で終わりません。
今日はゲームを通して「虚しさ」を語ってみましたが、
ものすごい分量になってしまいました^^;
でも思うのは、この虚しさを覚えているから、私は神様を信じて生きることの面白さがわかったんだなって思います。ゲームから虚しさを学ぶことは卒業して、神様から永遠を学ぶことを是非はじめてみてくださいね^^