はじめるときは、ウキウキ、ドキドキ、わくわく。
でも終わったら、はじけ飛んで、ひゅるひゅるひゅると落ちて、何も残らない。
そんな人生を生きていることがほとんどじゃないか。
3月末というのは、人との別れが多いものです。
とてもお世話になった方も、突如お別れ。
やっていた仕事も突如終わりになり、幕が閉じる。
家に戻ってふっと一息をついて、仕事のことは忘れ、何をしようかとパソコンを開く。
あの頃のことは、もうさようなら。
学生の頃も似ていたな。
テストのために、ひたすら勉強をしてきて、試験が終わったら、ふっと一息をついて、勉強のことは忘れ、何をしようかとテレビのリモコンを探る。
目の前のことが済めば、もう終わりなんだ。
そんな過ごし方をするのが、ほとんどなのか。
生きる目的がなければ、なんて虚しい生き方なんだろう。
でも生きる目的は、人間自ら作ることはできない。
自分で目的を作ったところで、その目的を成し遂げたら、目的も目的ではなくなるから。
それは本来目指すべき目的ではなかったんだ。
それは自分で作り上げた目的。だから成し遂げればその実を得るけれども、その実を食べたら、次の実を探したくなる。
私が神様を知らなかったからば、ひたすら自分なりに実を得ようとあちこち手をかけ心を注いで生きてきただろうなあ。
神様は「そうじゃなくて、こっちに来なさい」とおっしゃるのに、私たちは分からないから、全然違う方向に心を注いで時間をみんな違うところに使ってしまうんだな。
食べたら終わるようなところに、全力で生きてしまう。
時間は限られているのに、食べたら終わるところに人生全てを注いでしまうから、残るものがないんだな。
でも、
残るものがなくたって今が良ければいい!
いつ死ぬか分からないから、今を楽しもう!
そう思う人だっている。
でも、
「今」がどれだけ貴重なのか・・・
本当にわかったら、そうは言えない。
「今」は実は「今」だけではない。
「今」が運命を左右する。
「今」が未来を決めてしまう。
今というのはそれほどの威力がある。
過去失敗したことが、今になってドーンとつけが回ってくることがある。
過去のわたしめ・・・何をやってるんだ・・・・!
そいういうことがよくある。
あとで残らなくたって今楽しければいいというのは、
「今」の威力を知らないことだ。
「今」のたいせつさを本当に知らない人だ。
今がどれだけ大切なのかが分かったら、
未来を見て、今を生きるはずだ。
何も残らない未来がわかっているなら、
どうして今をそのように生きるのだろう。
今、おろそかにしておいて、未来に打撃を受けて取り返しのつかないことになるなら、
今を恨むだろうな。
「黄金のような時間、永遠のために使いなさい」
永遠のために今を生きることを教えてくれたのは神様だ。
神様は最高に頭がいいから、今を生きるにしても永遠のために生きる。
最高にかっこいい生き方だ。
仕事だって10年先の目標を掲げて今やるべきことをする。
神様は永遠を見て、今何をすべきか御言葉で教えてくれるのだ。
最高の知恵じゃないか。
でも、永遠のために今を生きるという発想は、通常ありえない。
だって永遠なんてない、というのが人間にとって普通の考えだからだ。
だから今楽しければいいというのが理論として正しい。
ところがどっこい。
神様はおっしゃる。
「永遠な霊のために、今を生きなさい」
霊という概念が生じたら、人間は覆されるしかない。
霊は永遠だからだ。
虚しい人生、肉体100年のために生きる人生だと信じたら、
未来に残らなくても、今楽しければいいのさ。
でも、永遠のために生きる人生になるなら、
今苦労しても
「命の道を生きなさい」
そうおっしゃる神様の御言葉が理解できる。
芽が出ない種に期待して、水を注ぎ続ける人生はもうやめよう。
その種に芽が出ないとわかったならば・・・!
芽が出る種に水を注がなくちゃ。
永 遠
という種。
永 遠 という
霊の種 に、
今という時間を注ごう。
それこそが、神様が私に教えてくれた人生の生き方だ。