最近聞いた御言葉で「うっわ〜〜〜」て思ったやつなんです、今日話すのは。
昔から人間って変わりません。
煩悩の数は108個あると聞きますが、人は欲のカタマリなんだなとしみじみ思います。
鄭明析先生も御言葉の中でこうおっしゃいました。
ある人のことについて「その人の顔だけでも見たら満足するだろうな」と言いましたが、
いざ顔を見せてあげたら「対話したら満足するだろうな」と言います。
そうして対話してあげると「一緒に食事したら満足するだろうな」と言います。
しかしやはりそこで満足できずに、
もっともっともっと「願うこと」が生じてきます。
<人間の心と心理>はそういうものです。
<自分の頭>を満たし、<自分が願うこと>を満たそうと、ありとあらゆる努力をし労苦をして生きていきますが、
いざそれを満たしても、そこに満足できません。(摂理の御言葉より)
めちゃアーメン。
私も服を買ったんですけどね。
あの服ほしい、あの服を買ったら今月はもう買いません!!!
と熱く天の前で決心したんですが、いざ買ってみると
「あの服もほしいな」なんて思ってるんです (p_-)
でもですね、こんな話、むか〜〜しの人も話していることですよ。
人間は欲のカタマリじゃ!なんてなんちゃら時代も、うんちゃら時代も話していることなんですよ。
だから人間が醜く思えたり、しょーもない存在に思えたりもしました。
でもですね、それを神様もず〜〜〜っと見ていらっしゃると思うと、なんだか心苦しいものです。
<自分の頭>を満たして楽にばかり生きようとしたら、きりがありません。
続けて満たしても、「自分の頭を満たす生」は満足がありません。(摂理の御言葉より)
これ、すごく深い話だと思ったんです。
もう一つ比喩で話してくださいました。
人間は<一生>をかけて「自分の頭」を満たそうと本当に労苦しますが、結局「コーヒーカップのようなその小さい頭」を満たせずに死にます。
午前4時まで寝ていたけれども、願いどおりに5時まで寝て、
そこで満足できずに6時まで寝て、
そうしてもっと寝たくて7時、8時、9時まで寝るようなことです。
多くのものを満たして生きるようでも、結局「残るもの」がありません。(摂理の御言葉より)
これですね、これ、どう思いますか・・・?
すごいわかります。(ドヤ)
でもここにすごい深い真理が隠されているんですよね。
ほんとに人間全員がアーメンする話。
みんなみーんな、「楽したい」「もっと寝たい」心理を持っているんですね。
でもですね、豚がいくら「屠られたくない!」と言ってあがいて少し生きる時間が延長されても、いつかは屠られるように、
寝る時間も「もうちょっと寝たい!」と言って、少し延長して寝ても、いつかは起きないといけません。
”多くのものを満たして生きるようでも、結局「残るもの」がありません。”
私たちは一体なんのために生きているのでしょうね・・・。
人は「二とおりの満足感」で生きていきます。
一つ、「栄えるためにもっと行なう満足感」で生きていくし、
二つ、「楽するために少なく行なう満足感」で生きていきます。
<もっと行なうこと>もきりがないし、
<少なく行なうこと>もきりがありません。(摂理の御言葉より)
人間として生まれて、<願うこと>は、みんな似ています。
でもそれができたからと言って、どうなのでしょうか・・・?
死ぬときになって、人生を振り返った時、楽をした時間は一体何を残したでしょうか・・・?
”人間は<一生>をかけて「自分の頭」を満たそうと本当に労苦しますが、
結局「コーヒーカップのようなその小さい頭」を満たせずに死にます。”
そんなにも願っていたことをしたとしても、
そんなにも楽をしようともがいたことも、
結局キリがない、終わりのない欲を満たそうとするようなもので、いつの間に年を取って死ぬようになります。
み た せ な い の か
YO!!!
て言いたくなります(._.)。
小さな頭も満たせずに生きるんだなあ、なんて、
神様から見た時、「なにやってんだYO!!」て感じだろうな。
やってもやっても残らない、虚しい時間を満たそうとしないで、
<永遠なもの>のために、満たしていこう!