人々は「いい場所だ。いい環境だ」と言うけれども、「言葉の雰囲気」に過ぎない。「実体」がなければならない。<実体がない所>は「臨時に作った仮設舞台」と同じで、結局消え去る。
今日夢を見たのですが、
夢の雰囲気が、なんかすごいグロデスクでした。まさにバイオハザード!!
これが現実になったら嫌だ!と思って起きたのですが、寝起きがひどく、夢うつつの状態でそのことばかり祈っていたんですよね。
そしたら、祈っていてまた眠かったのか、祈りながら嫌な夢を他、二種類見ました笑
それでまたそのことについて祈っていたら、なんと、ほとんど朝の時間が終わっていたのです!!ガガーン
さらに朝の御言葉を聞けてなくて、焦って(;゜O゜)御言葉を聞いて衝撃的でした。
<実体がない所>は「臨時に作った仮設舞台」と同じで、結局消え去る。
うわあ。
実体のないことばっか祈ってた。。。
仮設舞台に過ぎない時間になってしまった。。
雰囲気と実体
雰囲気とはなんでしょうか?
先生の御言葉にはこうあります。
<かすかに見えるほど高く天までそびえた美しく雄大で神秘的な聖殿>に行ったら、その日は聖殿の補修をしていた。
よく見たら<内側>は「赤いレンガ」で積んで、<外側>だけ薄く「大理石」を貼ってあった。
全部「大理石の彫刻」だと思って感嘆して見て回ったのに、<内側>と<外側>とは違っていた。
『雰囲気』とは、外側と内側が違う!!
それってとっても残念ですよね。
でも、雰囲気って、内側が発覚するまでは分からないんです>_<
内側がどうなっているのかって、自分で分かってみようとしなければ、なかなかその実体を知ることはできないですよね。
雰囲気
なんとなくなあなあな気持ちでもできちゃいます。
それって、自分のこともうやむやにしてしまっているということでもありますよね。
自分のことも雰囲気みたいに、実体のないように接してしまっていることってないでしょうか…?
自分の心がわからない状態のまんま。
自分の考えもまとまらないまんま。
なんとなく状況と環境に流されるまんま。
実体のない人生って、とても空虚で、表向きは派手でも、最終的にはガランとするような、、
そんな状態…。
だから実体の生を生きる必要があります。
自分にも実体的に接して、実体的に向き合って、
本当に本気になってやってみる。真実な心。
内側がそのようであってこそ、外側も自然と内側に見合ったものが出て来るのだと思います。
お祈りも実体的な祈りをせねば!と、心を引き締める麦わらです。