摂理に来て驚くことを上げるならば
「向きあえば必ず答えが与えられる」
ということです。
それは摂理に来る前ではありえないことでした。
当時はいろいろな問題に対して絶対に「答え」はある!と確信を持って言えませんでした。
大学を決めるにしてもそうです。絶対にこの道が正しい!この道しかない!
それは自分の好みや理想だとしても、その道が必ず正しいという答えはありません。
自分はこんなことやってもいいのだろうか?
本当にこの道が正しいのだろうか?
私はこの人と結婚すべきだろうか?
私は将来海外に留学に行くべきだろうか?
人生、尽きることのない問題。
私たちにはあらゆる選択肢があり、決定権があります。
しかし、それが本当に正しいのかは分かりません。
だからその期間、とても「漠然」とするし「不安」だし「心配」です。
だから悩みます。
私もそうでした。そして今だってもちろんそうです。
何か決めなければいけないとき、また、問題にぶつかったとき、
「心配」するし「不安」になるし「辛く」なるし、「投げ出したく」なります。
でも唯一異なるのは、「神様」について正しく知ったことです。
そして「向き合う」ことを学びました。
自分の嫌なことは向き合いたくありません。
それでも考えなければならないとき、私一人では荷が重くて背負えないこともあります。
親にも言えず、友達に言っても解決せず、そういう悶々としたことって
たくさんあると思います。
でも、神様という存在を知ってからは、
問題にぶちあたるたびに、神様にお祈りしました。
「私ははたしてこの道で良いのでしょうか?もし間違っているならば状況が変わるようにしてくださり、
また良いならばこのまま進むようにしてください。」
また、こんなお祈りもしました。
「いつか私あんなことやってみたいんですが、ダメですか?本当にやりたいんです。」
こういうお祈りをしていると、ふとした瞬間、ある時になると「答え」が帰ってきます。
毎週伝えられる「御言葉」の中に答えが入っていることもあれば、
なぜか願っていたような「状況」になっていることもありました。
また、願っていなかった「状況」が突然良くなることもありました。
映画一つつくるようになったのも、私にとっては大きな「答え」になりました。
私の高校生のときから抱いた夢の一つが「脚本」を書くことでした。
そして、いつか自分の脚本で構成した「麦わら劇団」を立ち上げたいとすら思いました笑
これ、本当です。しっかり自分の叶えたい夢ノートに書いてあります笑
今は私が脚本を書いたものを、映像化し、映画をつくるようになりました。
まだ御言葉を聞いて間もないとき、私がこういう夢を持っているとあるメンバーに話したことがありました。
その人と再び再開するようになったのですが、映画の経緯を聞いて、
「一番良い形で成し遂げられるようになったね」と喜んでくれました。
自分がやりたいことも、やりたくないことも、
ぶつかってしまった問題も、ぶつかってほしくない状況も
聞いてもよく理解できないことも、辛いことも、頭が良くないことも
また良いことも、アピールしたいことも、短所も、
全部向き合って、全部神様に話せば
必ず時にかなって解かれるようになります。
摂理に来てこのこと一つ確信するようになりました。
向き合った分だけ必ず応えは来ます。
とくに、神様に話したことは、神様が責任をおってくださいます。
親に話しても親が責任をとってくれるのに、
神様はどれほどでしょうか。
悩んでいる人、心配、不安、そういったすべての人の問題が
誰よりも神様が解かれることを願っていますから・・・