母と聖書を1章ずつ読む条件を立てているのですが、
母も私もそれぞれの状況の中で引っかかる聖句がありました。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(ルカによる福音書10:41)
マルタとマリヤは姉妹です。マリヤが妹。
マルタは店の仕事をせっせとしていて、マリヤはイエス様の御言葉を聞いていました。
マルタはいいました。
「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
そのときにおっしゃったイエス様の一言が、先ほどの聖句。(ぜひもう一度)
私も母も、この聖句から啓示を受けたみたいです。
私の場合、マルタにもマリヤにも当てはまるようなことがありました。
あるとき私は思いました。
「一日競走するように走ったけれども、結局何のために生きたのだろう?」
一日一日時間と競り合いながら、やるべきスケジュールをこなしていきました。でも、あまりにも時間に追われすぎて、ただこなすことだけが目的になってしまいました。それでこんなことを考えちゃったのです。
何を目的にして一日を生きたのか・・・?
神様はこれに対してすでに答えを与えてくださっていました。
「私エホバが言う。私と一緒に生きることを目的として実践し、挑戦する生を生きなさい。 これが『人間最高の挑戦と実践』だ。
<最高の挑戦と実践>をしなければならないから、競走するように走って、勤しんで生きるべきではないか。
人間が私エホバと一緒に生きること、これに目的を置いて<天地万物>を創造し、<人間の肉と霊>を創造したのだ。
そう、核心はひとつでした。
でも、聞いた当時はよく分かっていなかったみたいです。
仕事をバリバリこなすこと。経済的に潤うこと。使命に燃えて走ること。勉強すること、学ぶこと。その他いろいろなことに精を出し、実践して功績を残しても、<たった一つ>のことを忘れたら、すべて意味がありません。
また、経済に問題があり、使命に問題があり、信仰に問題があり、ありとあらゆることが辛いと思ってへこたれていても、<たった一つ>のことができていればそれらすべてのものは問題ではありません。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」
その<たった一つ>が何かといったら、
「聖三位と一緒に生きること」
「聖三位を愛して生きること」です。
これを目的にして生きれば、今私が問題に思っていることは問題ではありませんでした。
大切なことは多くはない、とおっしゃったように。
普段やることが多いように思うけれども、一日の中でどれほど「聖三位と愛して」生きることができたのか、できなかったのかが一番大きな問題。
これが欠けたら、私みたいに「何のためにこんなに一生懸命に行ったのだろう?」と言うはめになります。
神様の御心はひたすら「愛」だ。 引き上げも御言葉も難しく見てはならない。 神様が願われることは、ひたすら「愛」ではないか。
「あなたたちが私を愛するならば、わたしの戒めを守るであろう。」
愛しなさい。 そして私の戒めを守りなさい。
私達が選択するもの、
ただ聖三位が選ぶものにしていきたいですね^^