摂理

摂理(JMS)獄中下のチョン・ミョンソク


キリスト教福音宣教会(摂理)について
いろいろな報道がされていますね。
混乱を極めていると言えます。これまでにないくらい。

私に言えることはただ一つ

「今流れている情報が正しいかどうかは、現場を見ればわかる」

(現場を見ればわかる、の具体的な部分は後半に語ります。難しさと共に)

…過去、チョンミョンソク牧師が10年監獄に入っていたことを
思い出します。

私は既に彼が獄に入っている時に伝道されましたが
メディアで聞いていたような性犯罪者とは印象が異なり
現実と情報が解離しているようにも思いました。

摂理の現場を直接見るほど
彼が性犯罪を犯すような人だとは到底思えなかった。

なぜか。

毎日御言葉を送ってこられたから。

そこには獄生活の中で天を呼び、祈る中で得た
知恵の御言葉がびっしり書かれていました。

それも、ありえないほどの量です。

その分量は、写真だとこれくらいの量ですが
これはほんの一部です。

2012年〜2016年
2015年の原稿は、ここにはほとんど含まれていません。

私は彼が、それほど性依存をする人なら
この原稿の中にも、それを感じさせるものを感じるか
通っている教会でも、性的な話が出てもおかしくないと思います。
私の教会ではありませんでした。

そもそも獄の中で神様の話ができるほどの精神状態を維持できるとは思えないです。そして罪を犯しておきながら、神様の愛を伝えるなんて、正常な人でなければ無理だと思います。

もしくは、異常な人だったのでしょうか?
まあ、確かに、朝から晩まで、ご飯をほとんど食べずに祈り、御言葉を書き送るのは異常ですね…

それと、鄭明析牧師の故郷、月明洞に実際に行ってみて
驚くほど美しい景観を見て、また作業を一緒にされる姿を見て
なんだかほんとに健康的な人だなと思ったのが印象的です。

それでも性犯罪者だと思う人は思うかもしれません。

私は、真実に話しますが
彼は、やってないと思います。
やっているなら、私も摂理を出るでしょう。

ただ、もし出たとしても、
神様のことは信じると思います。

石橋叩きながら聖書を学んで
納得した真理があるからです。

宗教に偏見があった私は
鄭明析牧師の笑顔にも疑心暗鬼したほどです。
かなり慎重に、御言葉を聞きました。

今でもそうです。

過去と現在の御言葉で「相違があるぞ??」と思う部分、
わかる範囲は全てお話しできます。

でもそれは、「今」はわからないものであることを
過去の経緯を通じて知っています。

だから「今は判断しない」

いや「判断できない」

それが摂理に通う信者の、一つの姿勢です。

報道で話すような内容が、私の身の回りや身近に起こっていたら別だと思います。
しかし、そういった内容を直接見て確認したことはこれまでの10年の間
一度もありません。

むしろ、神様だけを見て、賛美し、感謝し、生きるようになって
過去の生に対する虚しさから抜け出せたことが、私にとって大きな救いになっているから、一部の情報だけを信じることはできないと思います。

情報の編集はいくらでもできます。
しかし私は生放送、生の現場を何回も見てきました。

例えば「反応しないのは反抗だ」と伝えられた御言葉。
悪く取り上げられていましたが…

そこだけを聞くと、なんて怖い組織なんだ!!と思って当然です。
私もそこだけ見たら怖いと思います。

だけど、違うんです。
その話が出てくるまでの中身はどんなだったか…
私は全部聞いているからわかります。

決して私たちを縛り、苦しめるような
強制的なものであったのではない。

しかし、難しいことを引き出して話すならば

こういった言葉は「受け取る人の考え方」で
強制的な言葉にならざるを得ない。

例え大事なことだから「こうしなさい!」と強く話した言葉も
人を驚かせ怖がることがあるように。

もう一つ話します。

同じ御言葉を聞いても、強く聞こえる人もいれば
強く聞こえない人もいるということ。

私はその言葉が怖くて強迫的な言葉のようには思わなかった。
むしろ、深く聞こえたんです。
言わんとしていることが何かある…それを感じた。

この違いはなんでしょうか…?

私がおかしいのでしょうか…?

この感覚の違いは
これまでの家庭環境や、考え方によって変わると思います。

信仰というのは、それくらい一人一人によって感覚が異なってしまう。

これがもう一つ話したかった現場の
「ちょっと難しい」事情です。

御言葉を厳密に守り信仰する人は、
ちょっとでも御言葉通りにできないと、苦しくなる。
しかし、そこまでではない人は、そこまで苦しくない。

私はゆるく信仰していたのか、苦しくはない。

じゃあその「ゆるさ」とは何か…

それは

自分がどんな自分だとしても許容できる、という信仰と
神様はどんな人だとしても愛している、という信仰の

二つがあります。

朝起きれなくても、夜遅く寝るんだとしても、
神様を信じている生活は変わりない。

日曜日に水曜日に御言葉を聞くけれども
それも強制ではない。

聞けなかったら誰かが脅しにくることもない
献金もしなくても、滞納という概念もない

だから私は続けて摂理で信仰を持つことができたと思います。

この感覚の違いはどこからくるのか?

これからも考えてみたいと思います。

続けて山の稜線に立って、これからも見ていくつもりです。

本当にどの情報が正しくて、正しくないのか

もう一つ、真実に話します。

教会によってどういう指導者がいるのかによって
信仰の縛り具合は変わると思います。

正直に言うと
指導者によって、教会に縛りが出てしまう現場はよく見てきました。

私自身も、そういう指導者の方の言動で怖い思いをした思い出があるからです。
(今はそういう言動をする指導者ではありません)

だからそのような言動でひとり、悶々と苦しんだ方に関しては、
本当に怖い思いをしたと思うし、本当に苦しかっただろうなって思います。
そして申し訳なかったと、伝えたいです。

だって純粋に神様を信じようとしているのに、
人の言動を意識して生きなければいけないことは
辛いことではないですか?

私は、そういうの、嫌いなタイプなので
人から離れる選択をとります。

天と一対一で祈ることを選択します。
そういう人がいるなら教会に行かなくても別にいい。

行かないことを責める人やヒソヒソ言う人が
摂理にいないと言ったら嘘になります。

でも、責めない人や許容する人はいます。
私はそういうタイプの信仰者です。

純粋に神様を信じたいし
私自身の全ては人ではなく神様に打ち明ける。

オヤビンとコブンという作品に、その真実な姿勢は全て入っていると思います。
私自身について何か疑問に思うところがあるならば、是非とも作品を見てほしいです。

世の中に起こっている多くの社会問題と向き合って、
たくさんの悲鳴のような叫び声、苦しむ声を知りました。
私にできることはほとんどないですが…

オヤビンのように
「わしにできることは」と常に考えながら
作品を綴っています。

私は純粋に知った、神様の愛を伝えること
これだけは最後まで続けたい。

そして少しでもその愛で、一人一人と接することができる人になりたい。
そう思って社会でも仕事をしています。

今何を話しても、良くないように聞こえると思いますが
私は、ひとまず、自分の目で見た真実な摂理は伝えていこうと思っています。

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ABOUT ME
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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]