昔私は、「自分一人で、なんでもできる人」に憧れていました。
あれもできて、これもできて、それもできる。
わあ、一人でいればなんでもできるな!そういう存在に憧れていました。
ところで、麦わらさんもしばしばそんな風に言われることがあります。「麦わらさんはあれもできるし、これもできるし、いいよね!」
・・・たしかに、あれもこれもそれなりにできてしまうのは、神様がくださった個性のうちの一つだと思うのですが、最近は「いやあ、自分ひとりよりも、みんなでやった方がいいな」と思うようになりました。
ひとつの肢体が、あれもこれも役割を果たすことはできません。手が書くことも、渡すことも、持つことも、支えることもできたとしても、歩くことはできないし、見ることはできないし、聞くことはできません。
手ができる範囲は限られているし、手が手以外のことをしたら辛いし大変です。
私もそうなんだなって感じます。私が手のように、手ができる範囲のことができたとしても、それ以外のことに手を出したら頭が痛いし、難しいし、時間もないし、やりたくてもできません。私にできないことは、できる人が絶対にいるので、その人にやってもらってこそ理想的です。
教会にいると、ひとりひとりの役割に一つも無駄がないんだなあって思うのです。私も一つのグループをまとめることがあるのですが、そういう時、やはりそれぞれに役割があって、それぞれが動いた方のが理想的だと思ったのです。グループを統括するからと言って、自分がなんでもかんでもやってたら、一人で疲れるし、みんなも面白くありません。
それぞれ個性通りに行ってこそ、楽しいしやりがいもあるし、キラキラとその人の個性が光るのです。
摂理に来て楽しいと思うのは、ほんとに個性通りに神様が使ってくださるからです。ときには自分には思ってもみないようなことを任されることもあります。でも実は自分に秘められた個性や才能を、そのことを通して神様が見せてくださるのです。
私の場合、どうしてもハンドメイド系のことや、緻密で繊細で細かい作業が苦手でして・・・^^;
そしてそこに取り組んでも、あまり面白さを感じません^^; でも人によってはすごく器用にアクセサリを作ったり、飾り物を作ったりしますよね!本当に羨ましいです笑
それぞれの位置で行ってこそ、全体がもっと前に進むし、希望があります。また、自分の位置でも、代わりになる人を育てていくことも必要だと感じています。
先生は本当に幅広くなんでもできるからすごいですが、もっとすごいのは、人を生かして個性通りにもっと輝くように育てられるからです。
私もひとつひとつ削って作って、神様が願われる生き方ができるようになりたいです。