聖書を1日1章読むということで、メンバーたちと協力しながら読み始めている麦わらです。
さあ、聖書をどこから読んでやろうか!と思っていたのですが、フリーの期間で、新約聖書の四福音書と呼ばれる部分を一読しちゃっていたので、先に進むことにしました。それも、ちょっぴりすっとばして「コリント人への第一の手紙」から笑
読んでみると「知恵」についての話がたくさん載っていました。なんと1章から16章までに「知恵」という言葉が<22箇所>出てきます。結構多いですよね。
まだ3章くらいしか読み進めていないのですが、個人的にヒットした聖句を書き記しておきます。
知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。
この世の論者はどこにいるか。
神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。
そこで神は、宣教の愚かさによって、
信じる者を救うこととされたのである。
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。
このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、
異邦人には愚かなものであるが、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、
神の力、神の知恵たるキリストなのである。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
(コリント人への第一の手紙1章18〜25節)
いやあ、一言一言が鋭いですねえ。
「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。」
と、よくぞ言った!と言いたくなる絶妙なニュアンス。
でも本当にそうですよね。
日本もかなり栄えていますが、発達した学問、物質、科学、医療・・・知恵はものすごくついたはずなのに、
「神」を認めるには至らない現状が続いています。
発達すればするほど、追い求めるものがもっと物質や娯楽的になってしまうからかもしれないですねえ。
それでも昔は日本だって神様をいたる事物から発生させて多神教の文化をつくってきました。
物質も何もかも全然発達していなかったけれども、天候や自然万物の神秘を通して神様を認めるしかない時代だったのではないでしょうか。
逆に今は科学が発達したから、神様を認めるに至れていないのでしょうか・・・?
そうではないと思います。科学が発達したからこそ、ミクロの世界に規則性があることに感嘆して、地球が一定の角度で一定の動きをしていることに驚嘆し、神秘さを感じます。
でも、概念として、神様の存在自体がぼんやりしているからなのか・・・
なぜかはっきりと神様に到達しきれないんですよね。
御言葉を聞いたら、絶対に神様はいるしかない!と思うようになります。
神の知恵たるキリスト」によって、「神を認める至る」
本当にものすごい知恵なんだなと感じるしかないですね^^