今日も教習所に行きました。学科はほとんど終わったので、今は勉強してテストに備えなければいけません。
実技はまだ少し残っているので、自分の苦手なことを何度も何度も確認する時間にしています。
神様は温度計や秤が「鋭利」に反応するように、人間が「とても鋭利な反応」を見せるように創造なさいました。 そうすることで人間自ら<よいこと>と<悪いこと>を分かって分別して行ない、小さいことでも<行なうべきこと>を分別して行ない、<行なうべきでないこと>は分別してやらないようになさいました。(主日の御言葉「正常を超えたら耐えられない」より)
人間は「鋭利」に感じるように神様が創造されている!
これってとても嬉しいことのようですが、時には、もっと遅く寝ても大丈夫な体質になりたいなあなんて思うことがあります。
でも神様はバシッとおっしゃいました。
<眠らなくても耐える人>は特別な超人ではなく、「不眠症の患者」です。
(T_T)アーメン
遅くまで起きたらやはり眠くなるのが人間ですし、それが「正常」なんですよね。
それを超えたら人間耐えることはできません。度が超えたら、人間みんな苦痛なのです。
教習所で車の運転をしていると、「本当に人間は「鋭利」に感じないと、すぐに事故るなあ」と思いました。
車はただ乗って運転するだけではなく、あらゆることを察知しながら乗らなければいけません。
敏感に敏感に、あの信号!この看板!人がいるのかいないのか!
鋭利に研ぎ澄まさなければ
危ない!!
(゚∀゚)ガシャーン!!!とやらかしてしまうのです。
だから「鋭利」に創造してくださって本当に感謝だなと思いました。
またするべきことがあるのに、鈍くてやらなくて、ずっとそのままでも耐えられるということは
その面に置いて感覚が死んでいるのだとおっしゃいました。
受験勉強をしなければいけないのに、そのままずっと勉強をしなくて、そのままで耐えられるということは
ものすごい感覚が死んでいることになりますよね!
子どもが食べ物がほしくて泣いているのに、料理もをせず、子供のことも気にしないで耐えられることも
ものすごい感覚が死んでいます!
信仰的にも同じです。お祈りをしなくても、御言葉を聞かなくても耐えられてしまうのは、感覚が死んでしまっているから・・・!
感覚はどうやったら元に戻るのでしょうか?
私は運転するとき、未だにまだ掴めきれていない感覚があります。それが「左の距離感」
左に曲がる時、もちろんもう曲がれるのですが、少し大回りになってしまったり、逆に小回りになってしまったり、
まだ感覚が完全ではなくて安定した左曲がりができません。
でもそもそも「左曲がり」の感覚を身につけなければ!と思ったのは、
教官が教えてくださったからでした。
教えてくださったから、今自分に何が足りないのかを分かって、備えることができます。
分かったら、何度も繰り返し行って感覚を身につける訓練をします。
分かればあとは直すだけです!
信仰に置いても主はおっしゃいました。
<考えが死んで、感覚が死んでいる人>は無気力で、「すべきこと」をしなくてもよく耐えます。
深く祈ってみてください!本当に祈らなければなりません。
主の御言葉を聞いて自分の考えを集中し、刃物の刃(は)のように鋭利にして祈らなければなりません。
自分は何ができていないのか、何を悔い改めて焼却すべきか、必ず分かって、行なって焼却すべき時です。
祈ることで、本当に今何の感覚が鈍って死んでいるのか、「知る」ことからはじめなければいけません。知った時に、ハッ!と感覚を生かすことができます。
神様に自分の何が死んでいるのか、「必ず分かって、行って焼却すべき」時です。
教習所に置いては、「左曲がりを直すことを分かって、行って焼却する時」ですが
麦わらさんの中でも、今死んでいるものが何か必ず分かって行って焼却する必要があります(T_T)
分かればあとは行うだけだから、
分かることができるようにお祈りしていきましょう(^^)
鋭利であってこそ、生きることができますから!
「生活の中で鈍っているもの、必ず教えてください〜〜〜」