信仰のもがき

摂理で調子を落としたとき〜関わりたくない気持ち〜


 

人生いろいろ、摂理でもいろいろです。

摂理に来たからと言って、すべてが順風満帆なのかといったらそうではありません。

調子を落とすときもあります。

信仰をよく頑張るにしても、そうでないにしても、神様を信じるにしても、そうでないにしても、人生には困難はつきものです。

正しい道に行くとしても、そうでない道に行くとしても、どちらにしても辛いこと、苦しいこと、諦めたいこと、やめたいことはあります。

摂理で「調子を崩す」というと、体の具合が悪いということではありません。なんというか、麦わらさん的に通訳するならば「関わりたくない」ですかね^^;笑

やっていたことも、関わりたくないし、メンバーとも関わりたくないし、聖三位や主とも関わりたくない、という極限的な状態を含めて「調子を崩す」と表現すると思われます(定義は決まっていません^^;)

私も調子を崩すとですね、ひとまず誰とも会いたくないんですよね。一人でいたいと思います。あ!すごいあるのは「スマホ」を一切見ないというのがあります!笑

スマホを枕の下に置いて置きたい気持ちになるんですよねえ。ひとまず誰とも関わりたくなくなります。

誰とも関わりたくないと思っても、自分自身とは関わらなければならないので、あとは自分がどうするかになってきます。

でも人は調子が悪くなっても、もとに戻らないことはあんまりありません。風邪を引いて、ちょっと横になることはあっても、一生寝たきりにはなりません。でも、薬で処方しなければ良くなる方が困難でしょう。

ただ一つ、大きな処方は

「聖三位と主」だけには「関わってください」ということです。

関わり方は、なんでもいいです。ちょっと対話してみるなり、気が済むまで祈るなり、賛美するなり、御言葉を読むなり、聖書を読むなり、主を呼んでみるなり、考えだけ天に向けるなり・・・小さくて、一瞬だけだとしても、天との関わりは断ってはいけません。

そうでなければ、自分では手をつけられようがないからです。でも三位が手をつけてくださったら、復活は早いです!

私も今日の朝、大爆睡をして完全にアウトな状態で礼拝に向かいました。でも準備賛美、特別賛美のために練習をしてきたし、天の前で悔い改めと同時に、それでも感謝する心は忘れずに向かったんですね。

完全にノックアウトみたいな状態で礼拝に行ったんですが、ある人を通してすごい励まされたんですね。私に向かって話したのではなく、全体に向けて話した言葉の中に、「わたし」に向かう天の心情が感じられて、すごく涙が出そうになりました。

調子が悪くても、責任分担が果たせなくても、「目的は愛」です。何があっても「天に向かう愛ひとつ」これが目的ならば、必ず回復できます。他で埋めようとしても埋まりません。人を通しても神様は働きかけてくださいますから、辛いときほど天にアンテナを貼ってみてください。いろんな人、いろんな万物を通して必ずあなたに会おうとする天のもがきと努力が見えてきます。

愛する人が大変ならば、顔色もうかがって、美味しいものもふるまって、わかってもくれようとして、背中も押してあげたいものです。

どんなにその時が大変だとしても、そこだけで判断してはいけません。

なぜなら、聖三位が見ていらっしゃるのは「今」だけではなく、「今まで」と「未来」も全部見ていらっしゃるからです。

調子が悪いと、つい目の前のことや自分のことばかりが視野に入ってきますが、それだけですべてを判断したら、あまりにも神様がもどかしいです。酸素のように近く、目に見えなくても共にする神様だから。呼吸をしたら神様が感じられます!

調子を崩すことは誰でも人生生きるならあります。一生風邪を引かないで生きる人も少ないでしょう?

調子を崩したら、もっと飛躍する機会だと思います。だからどうか悲観しないで、必ず天に、主にすべてを打ち明けて、考えをおろしてくださいね。

 

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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]