とても深い御言葉を聞きました。
私たちにとってとても大事な肢体は「脳」ですが、脳はつまり「神経の塊」です。この神経が「考え」を作り出し、この考えによって人生を生きるからです。
先生は今神経がとても大事だということを話してくださいました。
その中で印象に残ったのが「相手の神経が覚めて正しく感じ考える時に、見せてあげ、聞かせてあげないといけない」という御言葉でした。
神経が覚めている状態というのは、どういう状態でしょうか。
先生はおっしゃいました。
「相手の神経が覚めていて考えが聡明であっても、<相手がちゃんと神経を使わずにいる状態>で見せてあげ、話してあげたら、一日中、一週間、一か月見せてあげ、話してあげても分かりません。
<神経と考えを集中するようにさせてから>、その時に見せてあげ、話してあげてこそ、正しく感じて分かります」(摂理の御言葉より)
神経が覚めて考えが聡明であったとしても、神経を使っていない状態であれば!聞いても分からないんですって!!(ちょっと驚き)
考えてみれば自分も生活の中で常にぼーっとしているから見ても分からない、ということばかりではありませんでした。考えが聡明でパキパキ仕事をしているとしても、
ある瞬間瞬間、集中すべきところに神経を使っていなかったことは、まったくできませんでした(-_-;)
<神経と考えがそちらの方面に覚めていない状態>で見て、聞いたとしても、そちらの方面についてはまったくわからず、聞こえてもいません・・・。これってすごい問題だと思いました。
使うべき方向に神経を使わなければ、まったく気づくことができないのです・・・。
<カメラ>は見える通りに、角度通りにだけ撮れます。
<神経>もそうです。神経を使った通りにだけ見えて、聞こえて、考えます。
だから神経を使って綿密に見て聞くことをしなければ、おおざっぱにだけ分かります。(摂理の御言葉より)
私、あるあるですこれ。綿密に見て聞くことが(さらには読み取ること)結構苦手です。だからおおざっぱにだけ分かるんですよね・・・。
絵とかもそうです。もっと綿密に被写体を見て詳細に捉えるならばもっと絵もうまくなるのだと思うのですが、模写するにしても、綿密に詳細に見ないから、骨格とかうまくとらえて絵を描くことができないのです。
文章を読むときも、綿密に見ないから、違った捉え方をしたり、理解するのに時間がかかったりします・・・。
神経をこのようにおおざっぱに使ったら、おおざっぱなものしか分からないし、表現することもできないのだなと感じました・・・・。
さて、 <神経と考えを集中するようにさせてから> 見せてこそ、聞かせてこそ、正しく感じて分かるとおっしゃいましたが、どのようにしたら神経と考えを集中させることができるでしょうか・・・?
例えば、相手の関心のあることを話したら、神経と考えを集中して話を聞いてくれるかもしれません。
「自分が聞きたい」と思うことはどんどん吸収していきますよね。
その人の人生の目的に合うことは自分のものにしたいと思います。
他にはなんでしょう・・・。例えば何か「刺激」されたとき、すっと耳に入ることがあります。
私も御言葉の説教を聞きながらたまに眠くなることがあるのですが、映像になったとたんバッ!!と目が覚めることがあります笑
でも、どんなに相手の関心事と合う話をしたとしても、相手がどんな目的を持って自分の話を聞いているのかによって、伝えた後の感想って変わってくるのも体験したことがあります。
自分が意図して話したことと、相手に伝わっていることが異なる、ということがよくありませんか・・・?
そういうとき、どうしたら相手の神経が意図した方向に集中できるようにしたらいいのかって、思った以上に工夫したり技術が必要だとも思います・・・。
どんなに長く期間御言葉を聞いていたとしても、自分が天とは異なる方向に関心があるならば、その方向の答えとして御言葉が聞こえてきます・・・。
しかし本当に心を空けて、今神様が自分に願っていることは何だろう?と思って御言葉を聞くならば、聞こえてくるものはまた違うのだと思います。
伝える側がどんなに素晴らしく準備して伝え、真摯に伝えたとしても、相手の状況を無視して伝えた場合、その話はまったく耳に入っていない、ということも神経の話を通じて読み取ることができます。
うわあ・・・なんだか神経って深いですね・・・。人間の体の核心が「脳神経」だから、脳神経を正しい方向に使わないと、人生が本当に台無しになってしまうのです・・・。
文章にして書きながら、考え深くなった麦わらさんでした。