「釘を抜いて!」
紙にそう書いてあったので、わたしにできることはこれくらいしかないから、とりあえずはさみの持つところを使って釘を抜きました。
今週末、名古屋からお姉ちゃんと賑やかなちびっこたちが我が家に遊びに来ます。甥っ子のくまちゃんと、姪っ子のみるちゃんです。
それで家族はみんなお姉ちゃんとくまちゃん、みるちゃんをお迎えするため、あちこちを隅々まで掃除していました。
私は全然やれなくて怒られ、すみませんという感じで、ひとまず釘だけでも抜こうと思いました。
釘を見ながらくまちゃんとみるちゃんがここで怪我をしてはいけない、と思って抜きました。
このように誰かを迎えるときには、「来たときのことを想像しながら」「今何をすることが必要なのか」を考えるのだなと感じました。
それぞれ気がつくポイントが異なります。お風呂を掃除する人、部屋を掃除する人、気がつくポイントが人によって異なります。
その位置の通りに、個性通りに、感じた通りに迎える準備をするのだなと思いました。
この時代、キリストを迎えると騒がれている時代なのですが(特に1999年は最も騒がれていた時代でした)
「迎える」というはどういうことなのでしょう・・・・?
甥っ子のくまちゃん、姪っ子のみるちゃんが来ることを想像して、こんなにも心を尽くして掃除し、迎える準備する家族を見ながら、私は、少し感慨深くなりました。
「私達をもっとも愛し、救うために命を懸け、犠牲になり、生かそうとするメシアを迎えることにも、これほどの心で準備できているのだろうか」
(メシアという概念が、日本ではあまり浸透していないのでパッとしないかもしれませんね。国民的にものすごく偉くて、有名で、尊ばれていている人を、自分の家でお迎えするような感じでしょうか・・・)。
家族を通して、「迎える」ということは、
<実際にこの場に来たときのことを考えて準備すること>だと学びました。
そうしてこそ実質的な準備になるのだな、と。
今この場に自分の問題を全て解いてくれる存在が来られるとしたら、どんな準備をするでしょうか。
人によっては様々気がつく点は異なるかもしれませんね。
でも、「準備した」という行いが、結局<愛すること>なのだなと思いました。家族が本当にお姉ちゃん、甥っ子、姪っ子を愛して準備したように。愛していなければ準備することはできないのだと思います。
今この場所に、この地上に神様が送ったメシアをお迎えするとしたら、
私達ができる準備って何でしょうね。