最近、よくよく考えてみると、「自分をつくれる」ことが本当に祝福なんだなあとしみじみ思うようになりました。
「自分をつくる」ことができていなかったときは、自分の間違った考え方で本当に損ばかり受けていたからです。
どうして摂理に来たら「自分をつくる」ことができると言うでしょうか・・・?
そしてどうして「自分をつくる」ことがそんなにもいいでしょうか・・・?
私は、摂理に来る前、自分をつくろうなんて人生の目的はありませんでした。
私は有名になりたかったんです。大きな人になりたいと漠然と思っていました。
でも思いつく手段が「小説家になること」「芸術家になること」でした。
だから技術が必要だから、技術を身に着けたいと思うようになりました。でも、私には<自信>がなかったのです。
そして<技術>もありませんでした。そして、具体的に何になりたいのか分かりませんでした。だから行う力も弱かったのです。
何か取り組んでも、ほとんどが中途半端で終わりました。何をやっても、いつも同じ場所で足が止まってしまいました。
だからたくさん本を読んで、アウトプットするものを増やそうと思いました。でも、そうしたら、すごく辛くなりました。
なぜでしょうか・・・?本に書いて有ることが、みんなそれぞれの主張ばかりだったんです。
とある本のある一行は、自分のものにもなるし感銘を受けた!と思いきや、違う本ではそうではないと話し、それも一理ありました。
本をどんなに読んでも、それが本当に正しいのかそうでないのか分からなくて、すごく心が苦しくなりました。
自分の中に入れる情報にも限りがあります。何でもかんでも自分の中に入れたら、それこそ何を信じていいのかわからなくなります。
だから「自分をつくる」ことは不可能に近かったんです。
でも漠然と大きな人になりたかった。革命を起こしたすごい人たち、マザーテレサのような誰にでも愛を施せるようなそんな存在に、漠然と憧れていました。
どんなにマネをしようとしても、限界がありました。自分の中に「愛」が溢れていなかったから。
摂理に来て最初に驚いたことは、「神様が自分を恋人のように愛してくださっている」ということを知ったときでした。
そんなにも私を愛していたの・・・?(全然知らなかった・・・)
それで神様に愛を告白するようになりました。感謝するようになりました。自暴自棄しそうなとき、自分に自信がなくて辛くなる時、いつも神様を呼ぶようになりました。そして祈るようになりました。「祈りは対話」だと教えてもらったから、神様の前に、疑問や辛いこと感じたことを全部話しました。
そうする中で、私に「愛」が徐々に増えていきました。ときには満ち溢れそうなときがありました。
生き生きと生きる喜びを感じれるようになったのは、御言葉を学んで3年くらい経った後でした。神様が私を本当に愛してくださっている。その確信が持てるほど、自分は強くなりました。これが「自分をつくる」経緯でした。
ええ?そういう方法なの?と話す方もいらっしゃるかもしれません。別に思想本を読んで、滝にあたって武者修行をしたのではありません。やはり根本は「愛」だったんです。どれほど神様の愛を悟れるか・・・それによって自分をつくることができたのです。
「自分をつくる」と、いいことがたくさんあります。
「作った分だけ使うようになる」と御言葉にあるのですが、本当にそうです。
聖書に書かれている御言葉、摂理の御言葉が矛盾のない<神様の構想>だから、その構想通りに作れば
「ああ、だからマザーテレサのような人が出てくるんだな」
「だから先生はどんな辛い環境でも、誰からも理解されなくても愛することができるんだな」と分かるようになりました。
私はまだつくり途中だから、まだまだ不足も多いです。でも漠然とでも大きくなりたい!と思っていた夢は、実現しつつあります。
神様が御言葉と出会わせてくださったから、今の自分があるのだと思っています。
変えられなかった自分を変えることができる。それが本当に最高の祝福であると感じています^^