ミコトバ

法は自由を縛るのか?〜法の大切さを学んで〜


 

最近摂理の御言葉で「法」について学ぶことがありました。

「法」というと、堅苦しく、冷たく、縛られるイメージがあると言います。でも、先生はこうおっしゃいました。

<神様の法>も<世の中の人法>も「自由を縛るもの」ではなく、実際は「保護し、守ってくれるもの」です。

(鄭明析先生の御言葉より)

私は摂理に来る前から「法」は堅苦しいけれども、「必要なもの」という認識がありました。

まさに、「法」があることで「秩序が正され」「命を生かす」とわかったからです。

命を保護するためには、お母さんが<するな><しなさい>と話しながら子供に教育するように、「法」を定めてそれを基準にして物事を分別し判断する必要があります。

調査会社に勤めてからも、結局のところ、「交通法」の観点がないと、どちらの主張が正しくて、正しくないのか、見分けられないということを実感しています。

「法」が基準として定められていなければ、すべてが無秩序で、正しい人が損を被るし、命が奪われる可能性があります。

ところで、考えてみると摂理に来る前の方が、御言葉を聞いていなかったので、とても自由奔放にやっていました。

特に自由だったのは「考え」でした。

どんなことも考えて良いわけですから、本当にいろんなことを考えました。
良いことも悪いことも、汚物のような考えもしましたし、中毒に陥るような考えもしました。
ポジティブになろうがネガティブになろうが自分の好き勝手でした。

無秩序の中で、それでも「こんな考えしちゃいけない!」と思うこともあったので、
【良心】にはあまり逆らわないようにはしていました。

でも、周りが良いとするものは、自由に考えていたし、本能通りに流れていきました。それが良心に逆らっても、考えたり行動に移したりしました。

そのとき、楽しかったのかというと、楽しかった時もありましたが、ほとんどがその場だけの楽しさで終わりました。

無秩序に考えていると、時には考えの溝にハマることもありました。溝にハマると、体も動きたくなくなって辛くなることがたくさんありました。

自分は良いと思っても、周りが理解してくれないと自信がなくなったし、結局周りの人の考えが正しいのかというと、全部がそういう訳ではないから、余計に混乱しました。

【基準】がありませんでした。

御言葉は、神様が定めた「法」であり「基準」です。

御言葉を守ることで、何が良くなったのかといったら、自分の状態が良くなったのです。

「考え」は人間の核と言われます。
考えが悪くネガティブになれば、どんなに環境が良く状況が良くても、考えが病んだら立ち上がれなくなります。

それほど考えが人間の運命を左右させます。

考えが無秩序だと、なんでも考えられるから自由だし嬉しいです。でも、それは情緒不安定な状態に近くて、アップダウンが激しいです。

私がそうでした(´`)

御言葉は「神様の法」「天の法」です。
考えの法でもあります。

神様の法は良心の法にぴったり合うから、苦しくありません。

時たま「え、こんなことも?」と思う御言葉もありますが、それをやってみると、結局こっちの方が良いことなんだな!と分かるようになります。

御言葉に接すると、どれほど自分が良心からズレていたのか、思い知らされます笑

仕事も労働法からズレた会社で働いたら苦痛で仕方ありません・・・(´`)

「法」が定められている、ということは、本当に祝福なのだなあと感じたのでした。

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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]