描いた絵が「以前と変わったな」と思う瞬間があります。
麦わらさんもつい先月、そんな瞬間がありました。
考えが変わるきっかけは、「絵を通して何を伝えたいのか」が明確になったときだと思いました。
例えば今までは、オヤビンとコブンであれば、オヤビンとコブンの楽しい姿、表現したい自由なポーズを描いていました。
しかし最近変わったのは、オヤビンとコブンの過去の姿、生い立ちや、家族の絵を描きたいと思ったことです。
以前はそのキャラクターの表面的な姿だけを描いていたなら、
今は、そのキャラクターの「人生」を描きたいなって思ったんです。
キャラクターにとどまらず・・・「一人の人生」を表現したいなって思うようになりました。
わたしたち人間たちは、本当に誰ひとりとして同じ生い立ちで育った人はいません。
そして考え方もみんなバラバラです。
似ている人はいるかもしれませんが、完全に全部どんぴしゃな人はいません。
関わる人もみんな違います。家族意外は家族になれないし、友達もバラバラです。
「一人の人生」に関わる人って、様々ですが、その人達によって自分が支えられて生きています。
だから、一人の人生を絵で表現する時、「その人だけ」描くだけなら深くないんですよね。
その人に「関わる人」も描いてこそ、その人の人生がより味わい深く表現できます。
表現が目的というよりは・・・
関わる人達によって生きている「愛」を伝えたいなあって思いました。
また、その人の「過去」を描くことで、もっと愛情を持つことができます。
わたしたちが毎日すれ違う人は、「現実」であって「過去」ではありません。
だから<対話>してみないと、その人が以前どんな生でもって今を感じ生きているのかわかりません。
でも、そういうことを普段どれくらい考えて人と接しているでしょうか・・・?
中々そこまで考えて接することは難しいかもしれませんね。
鄭明析先生がベトナム戦争に行った時、「敵にも家族がいる」と思って絶対に人を殺しませんでした。
生きるか死ぬかの戦場で、相手の家族のことを考えて生きることが、どれほど難しいでしょうか。
今日、電車のホームに向かう途中に、おじいさんが通路で倒れていたのですが、私を含め誰も声をかけませんでした。
ホームに向かう道だから、みんなせっせと自分の道を行きます。そこに100人以上の多くの人が通過しましたが、誰も倒れているおじいさんに声を書ける人がいませんでした。
もちろん酔っ払って寝ているだけかもしれません。でも見た目では倒れいるからもしかしたら本当に危機的な状況なのかもわかりません。
声をかけられませんでした。。
でも何かできないかと思って、駅員さんに声をかけました。「倒れている人がいます」
私にはそれしかできなかったです。おじいさんの状態だけが目に入るのであって、おじいさんの「生」を考えることができませんでした。
時間がない。声をかけるのが怖い。
ああ、どうして私は神様の愛の御言葉をたくさん聞いているのに、倒れる人ひとり声をかけることができないんだろう・・・。
こういうジレンマがたくさんあります。
その人の見た目だけではなくて、「生」を考えること。
生の中には、関わった人、家族、友人、過去〜現在にかけての成長、もがき、努力・・・・
人間は何もしないで存在することはできません。生きようと呼吸ひとつしなければ死にます。
今生きている「生」がとても大切なんだ。
でも忘れてしまっているわたし。
だから、忘れないために、続けて表現したいなと思う麦わらでした。