摂理

犠牲になれない惨めな自分を見て。コールセンターという環境で育つ


cocoparisienne / Pixabay

 

仕事をすると、普段見ることができない「自分」と出会うようになります。

とくにコールセンターという環境においては、
苦々しく惨めな自分の姿を見ます。

逃げたい。

避けたい。

帰りたい。

コールセンターは身体の戦いはありませんが、精神の戦いがとてつもないです。
(ああ、これを見てコールセンターを避けないでくださいね。私は勤めたことを誇りに思ってます。
本当に多くのことを学び、育てられました。技術も精神も鍛えられて、勤めることができて感謝したいです)

私が恐れているのは、みんなも恐れる「クレーム」です。
当然、人が怒鳴る声を進んで聞きたい人はいません。
みんな平和で、分かり合い、赦しあえたらどんなにいいでしょうか。
しかし、いざ自分が理不尽な目に遭うと、想像以上の怒りが噴出します。
私はそのような声を勤めながらたくさん聞きました。
(そしてこれは、まったく人事ではありません)

自分がコールセンターという環境で勤めながら、
足りない自分の考えが制御出来ないくらいに飛び出します。

誰かが対応したクレームを、代わりに引き継いで対応するとき。
絶対に怒る人に対して、それでも電話をかけなければならないとき、
本当に心が萎縮するし、怖いです。どきどきするし、誰か代わりにやってほしいと
どれほど願ったでしょうか。

だから逃げたいし、避けたいし、遠ざけたくなって、
人に任せたくなります。

(でも麦わさんはいつも心の中で葛藤します。
それでも私がやった方がいいのではないか。
出たくないし、代わりにやるのも辛いけれども、
やってあげたらいいじゃないか)

そういう葛藤が脳内で押し合いへし合いするのです。

今日も一日の終りに、残っていたクレームのお電話をしなければなりませんでした。
簡単なことを伝えるだけだったので、あまり身を構えず電話をしましたが、
想像以上にいろんな要望と言葉が出てきて、これで帰ろうというところでしたが
完全に帰れる感じではなくなりました。

本当にはやく帰りたい思いと、切り上げたい思いに駆られました。

ところで、コールセンターや自分と様々に起こった心の葛藤を思い浮かべて
祈っていると、ひとつの単語がズシンとのしかかります。

それは「犠牲」という単語です。

犠牲って、誰かの代わりに死ぬ、みたいな
肉体的な犠牲を思い浮かべてしまいがちなのですが、

ああ、そうではなく、

自分の思いよりも、相手の思いを優先させることが
犠牲なのだなと悟りました。

自分の思い、心よりも、相手の思い、心を立ててあげること。

先生がまさしくそのような方です。
自分がスッキリできなくても、相手がスッキリできるようにして
自分の心は折ること。難しいです。本当に難しい・・・

クレームを代わりに引き継いで対応することだって
どれほど心に葛藤を抱くでしょうか。
同僚が熱で早退するとしても、素直に愛でゆっくり休んでねと
言えたことが私にあるのだろうかと思います。

自分のことを最優先に考え、
自分の辛さが最優先になってしまうことが
どれほど多いでしょうか。

相手のために、自分を折るということが
本当に大変だと、
仕事を通して、また様々な事を通して身に沁みて感じます。

相手に理不尽に責められたとしても、わかってあげること。
自分の心はわかってもらえなくても、飲み込んで愛してあげること

できますか。

できる人は、本当に尊敬します。

先生はそういう方です。

長くなりましたが、あまりにも自分の心の限界線を味わうので
ついに吐露してしまった麦わらでした。

(環境を通して自分について教えてくださったことに感謝します。
そして頼もしいオペレーターの皆さん、本当にいつもお疲れ様です)

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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]