摂理

キリスト教福音宣教会-摂理とキリスト教は違うのか?


摂理は、完全にオリジナルな宗教(=カルト)なのか?

摂理で学ぶ御言葉は、その全てが聖書を元に伝えられています。礼拝の御言葉も聖書の本文がまず先にあって、それから御言葉に入っていきます。また、私が摂理に入ってまず初めに学ぶために呼んだのも聖書だけ、でした。何かオリジナルな教材を買わされたりすることはありません。

キリスト教福音宣教会という名前がある通り、摂理はキリスト教という大きな土台があって存在しています。

イエス様のときは?

2000年前、イエス様は大迫害されていました。当時メシアを熱心に待ち望んでいたユダヤ人に、十字架の刑にかかりました。

イエス様も当時はまるで、「どこぞのカルト宗教か」と問われる身の上だったと思います。

しかしイエス様がずっと伝えていたのは、旧約の時から伝えられる御言葉を解く、新約の御言葉でした。

旧約が問題であれば、新約が答えのような御言葉でした。また、イエス様は幼少期から聖書について学び、旧約の律法の中で生きていました。そしてユダヤ人たちにこのように話しました。

このようにしてイエス様にあれやこれやと訴えました。ですがイエス様はこう話しています。

 

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。

廃するためではなく、成就するためにきたのである。 (マタイによる福音書5章17節)

 

イエス様は決して、旧約聖書から始まる神様の歴史(ユダヤ教)を否定したのではありません。

むしろ旧約から始まる神様の歴史を、一層完全に成すために来られたのです。

 

摂理で伝えられている御言葉とは?

摂理で伝えられている御言葉はキリスト教とまったく別物?

…2000年前のイエス様のことを考えてみます。

イエス様は当時「旧約聖書ではわからなかった問題について、答えをくださいました」

つまり、旧約聖書では<解けなかった問題>があったのですが、イエス様が来て、新約聖書で解かれるようになりました。

でも新約聖書にも問題がたくさんあります。

 

・天国と地獄は本当にあるのか?神様は唯一神でイエス様になって来たけれども、どうして神なのに死んだのか?

・十字架は予定だったのか?肉が引き上げられるのか?イエス様が語られた終末はいつなのか?

・終末には地球が月と日と星が落ちてきて滅びるのか?

 

このように新約聖書でも解かれていない問題がたくさんあります。このことに関してイエス様はこう話していました。

わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで

あからさまに父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう

ヨハネによる福音書16章25節

2000年前、イエス様がどの程度福音を伝えられたかというと、

たったの3年半でした。

たったの3年半でどれくらい地上のこと、天のことが伝えられるでしょうか。

それもその当時はユダヤ人たちがイエス様を追いかけ回していましたし、御言葉を伝えてもいつも「お前の話していることは、律法に反している!」と言われました。

そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、
「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」(マタイによる福音書12章1〜2節)

 

イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。すると、そのとき、片手のなえた人がいた。
人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。

イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。

(マタイによる福音書12章9〜11節)

イエス様が話す言葉は、律法の御言葉よりもずっと理解ができる話でした。

律法で話している文字通りの言葉だけを主張するユダヤ人たちと、イエス様の御言葉はどちらが正しいでしょうか。

今ならばイエス様の言葉が正しいということがわかります。2000年経った今、イエス様が当時あしなえの人、貧しい人、女の人、誰でも平等に接していましたが、今では当然のように平等に接し、助ける時代になりました。結局イエス様が正しかったのです。

しかし当時は分かりませんでした。

一番弟子と言われていたペテロが、結局イエス様のこと3回否定したことを考えると、その時代に話されていた少しの御言葉だって完全には理解できていなかったのです。

だから聖書を完全に解くことができませんでした。

鄭明析先生が伝えられる御言葉

鄭明析(チョンミョンソク)先生はいつも聖書を広げて説教されます。

聖書が本文であり、教科書です。

同じく律法、キリスト教にも伝えられている神様について伝えていらっしゃいます。

先生は「求めよ、与えられる。探せ、見つけられる。叩け、門が開けられる」の聖句のように、聖書を読んで読んで、とてもたくさん読むだけでなく、本当に聖句をそのまま行いました。

あるときには分からなくて天の前で5300回も求めたと話しました。

それが今摂理で伝えられている御言葉です。

先生の御言葉を聞くと、聖書が昔の話ではなくて、今現実に起こっている話だということを感じるしかありませんでした。

当時のペテロたちのような異邦人がイエス様の言葉に心が折れてついていくように、異邦人のような信仰のかけらもない日本人の私も、心が折れて御言葉についていくようになりました。

それくらい完全な御言葉だと感じるしかありませんでした。新約の時に解けなかったものが、御言葉を聞くと本当に驚くほど解けるからびっくりします。

ある人は言います。

 

「それは私的解釈なのではないか?」「神様を冒涜していることではないのか?」

 

私も伝えられている御言葉は「私的解釈」なのだろうか?と思ったことがあります。

ですが「私的解釈」は、<部分的にしか合っていないもの>だと思っていました。

全部が繋がっていなくて、後になってボロが出てくるんじゃないかな…。

しかし摂理で御言葉を聞いていると「これは辻褄が合ってないな」と思ったことが本当にありませんでした。

聖書にも「部分的なものはすたれる」という御言葉があります。

全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

(コリント第一の手紙13章10〜12)

 

「神を冒涜する」という言葉は、この聖句を読むと、少し神様の考えとは異なる言葉なのかなあと思うようになりました。

神様は「全きものが来るときには、部分的なものはすたれる」「その時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」とパウロを通してわざわざ話されているのはどうしてでしょうか。

当時、青銅でつくったおぼろげの鏡のような<新約でわからなかった御言葉>も、「いつかは完全にわかるようにする」という神様の強い意思を感じます。

全部を知ってほしいから、このように語られているのだと思いました。

親もいつかは親心を知ってほしいと願うように、神様もいつか人間に願っているその心をわかってほしい…。

聖書が解かれるということは、神様の心情が解かれることのようだと、御言葉を聞きながら感じるようになりました。

 

キリスト教福音宣教会のもっとも素晴らしいことは「神様を真実に愛すること」です(^^)

ただ愛していますという言葉ではなくて、神様の立場で考えて、神様のことを思い、人と対話するように、近く接し、愛して、一緒に暮らす…

神様が本当に願っていることが、旧約聖書、新約聖書を通してわかるようになるのが、摂理の御言葉です^_^

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