電車に乗っていたら「今流行の『末路本』」という広告があって、ふんふん
ならば摂理で御言葉を聞いた人の末路本とかもあったらいいなあと思って筆を取りました^^;
摂理で御言葉を聞いた人の末路って気になりますか…?
どんな末路を送るのか…。うむ、しかし摂理で御言葉を聞いている人は、まだ末路を迎えていない(現在進行形)なので、末路までは書けないと思いますね…。
でもあえて現在を『末路』にしてみたら、なんとか書けるかも。
自分編~お酒と神様~
私が御言葉を聞くようになった末路はというと、ひどくお酒を飲んで心も体もボロボロになって精神がおかしくなった…という末路とは全くの無縁の生になりました。
ひどくお酒を飲んで、と書きましたが過去の私はそんなにひどくお酒を飲んだことはありません。そこそこ飲んでました。
でも、ある日、嫌なことがあったか、何かがあって、いろいろどうでもよくなったときがあったんですね。
その時はじめてお酒に頼ったんです。
コンビニで1缶お酒を買って、家の玄関前で座ってシュポッて開けて飲んだんですよ。
この時思いました。
「私の人生、ついにお酒に頼るようになったんだな。ははは」
あの時自分は、自分がお酒で気を紛らわすなんてな、、て思いました。
なんかどうでもよくなっちゃったんですよね。
そして人ってどうでもよくなると、何でもしちゃうんだなって思いました。もうお酒でも飲んで忘れちゃおう!みたいなノリでした。
怖いなって思いました。
でもそんな新たな一歩を踏み出した自分に、ちょっぴり興奮というか、ふふん、て思いました。
そんな一歩踏んで何か良く変わるんか?とつっこむ人もいませんでした。
神様は、きっと突っ込んでいたと思います。
しかし摂理に来た末路はどうでしょう?
お酒とは無縁の人生になりました。
お酒とは無縁な人生、というと、ある人からは残念がられます。
人生お酒を飲まないなんて、人生の半分以上の楽しみを奪われたようなものだよ。
そんな感覚で話す人もいます。
でも私は安心しました。よかったって思いました。
だって心の中では、お酒に癒やされる人生、そういう人生でいいのかなって思っていたから。
結局私が最高に頼り、癒やしを求める方は神様になりました。これが摂理に来た末路です。
信仰編
もともと私は仏教の日蓮宗に長いこと通っていました。
信じていた、というよりは、そこの所属のマーチングバンドに属していたので、それに伴って日蓮宗の信仰に触れることが日常でした。
だから「南無妙法蓮華経」と毎週日曜日唱えていたんですよね。
しかし意味も分からず唱えていたので、何か力を感じることはありませんでしたし、道徳的なお話を聞いて、それ以上にはなりませんでした。
だから信仰の欠片もありません。
大変な時は仏様も神様も呼ばず、人を呼ぶこともしないで、本を読んだり、溜め込んだものは全部日記に書き出していました。
心からすべてを話せる友人は、何人かいたかもしれません。
でも、話しても、分かってくれる人や、答えをくれる人はいませんでした。
それが私にとって一番の苦しみでした。
摂理で御言葉を聞いた信仰の末路はというと、ご存知の通り、神様を信じて生きるようになったことです。
でも、神様を信じるにしても、神様のことをちゃんと知らないで信じたら、それも苦しい信仰です。
例えば、どんなことをしたら神様が笑ってくれて、どんなことをしたら神様が悲しまれて、というのが分からないと、自分がやっていることが、間違っていて、もしかして罪なんじゃないか??
という縛りにハマってしまったりします。
それって、信じていながらも苦しい信仰ですよね。
でも摂理に来て良かったのは、
神様が何をしたら喜ばれて、何をしたら悲しまれるのか明確に分かるということでした。
だから、日常生活のどんな場面でも神様を感じることができるし、対話のキャッチボールができるようになりました。
摂理の御言葉を聞くと、それが知れるから、信仰が楽しくなりました^^
だから無理やり信じる信仰ではないし、自ら進んでする信仰になりました!
それが摂理で御言葉を聞いた信仰の末路です!
末路特集、やればきりが無いですね!笑
でも、摂理の末路がどうなるのか、今見ているところから考えても、いつも希望と愛が満ちているから、本当に幸せだと感じるしかありません^^