もがきの中の確信【摂理と私*1】



摂理に来る前の私はこんな感じでした。
この猫ちゃんのように
狭い部屋で、
これからどうしたものかと思いながら
生きていました。
大学のキャンパスがとても狭くて
人間関係も狭かったです。
また、私だけの世界に閉じこもっていたので、考え方も狭かったし、行うことも限られていて自分の枠外を貫いて出て行くことができませんでした。
そのくせ心の中では
「いつかビッグになってやる…!」
( ̄◇ ̄;)!?
と思っていたので、行いと心のギャップが崖っぷちの谷間ように切り開いていました。
それで、自分という限界を突破しようと
非常にもがきました。
まるでこの自転車みたいに…笑

抜け出したい。もっと良くなりたい。でも先に進まない…!技術もないし、何をやっても中途半端になる。なんでこんなに中途半端になるんだろう?もっと自分は何かできるはずなのに…いろいろやっても全部中途半端だ!私は中途半端人間だ!
そう自分にレッテルを貼りつけながら、葛藤していました。
摂理との出会いは
そういうもがきの中で出会いました。
ところで私は
とても宗教に抵抗がありました。
日本人独特な宗教観というやつで
「友達が宗教に行く分には口を出したりしないけれど、自分は別に大丈夫(できれば関わりたくない)」
そういう感じでした。
なので宗教であるキリスト教に
自ら関わり、
自ら聖書を開き、
自ら学びに行く毎日が
違和感、違和感、
違和感の何物でもありません。
THE 違和感でした。
摂理だということよりもまず、
宗教の中に自分が「いる」
ということが人生の中の
最高の矛盾でした。
それで始めは
この矛盾のために
心が苦しくなることがしばしばありました。
しかし、
そうまでしてでも聞きに行ったのは、
私が本当に限界を迎えていたことと、
聖書の話がどれも筋が通っていて、分かりやすく、矛盾なく、面白く、私の心の的を打ち、グサっと刺されて時には血を流し、隠せず涙で祈り、問題が解決し、深い神様の愛を感じ、深い神様の心情まで感じるようになったからです。
そう、そうなるまでは
確かに長い戦いだったけれど、
自分が実際に変化し、
全ての根本の問題が解かれた今は、
最高に自由になったんです。
ー摂理は本当にカルトでしょうか?
ー何を見てカルトと話しますか?
鄭明析先生は
今年強くおっしゃいました。
見て聞いた全てのことを<確認>しなさい!
<確認>は、偽りなのか、真〔まこと〕なのか、善なのか、悪なのか、明らかに見せてくれる。
時間がかかっても、100%確認して行うなら、誰も(その人を)騙せない。
<確認の御言葉>を聞いて、「確認のネックレス」を首にかけて生活し、
必ず守って行いなさい。

罪を犯した人間が、
獄中で全ての人のために祈り、
私たちのために寝ることも食べることも惜しんで
腕が千切れるほど御言葉を書いて
このように確認しなさいとまで叫んで
送ってくるでしょうか?
これが摂理の実体です。
是非ともちゃんと確認してみてください。確認したら一目瞭然です。物事の良し悪しがちゃんと見えます
ブックマークに
摂理の公式サイトや、報道や裁判についての真偽を問う「摂理の軌跡」というサイトもあります。確認してみてください。
今後も摂理と私の出会いの経緯も
少しずつ更新していきます。
感謝と愛を込めて(^_^)

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ABOUT ME
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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]