わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 ガラテヤ人への手紙6章9節
私の好きな聖句を改めて読んでみました。本当にアーメンと思いました。
昔は自分が小さな善を施すことに、何の意味があるのだろうかと思っていました。というのは、テレビをつければ怖いニュースがたくさんあったし、私の小さな善ひとつが、何の力があるのだろうかと思ったからです。
今でも、神様の目から見て良いと思うことをやっても、「果たしてこれは本当に報われるのだろうか?」「もうこんなに時間が経っているのに、まだできないのかな?」など、自分の考えで、善を評価し、また善をあきらめてしまおうかと悩むこともあります。
人によって「善」は異なると思います。しかしその「善」に対して、誰もが賞賛し分かってくれるわけではありません。ところが「悪」は嘘をつけるし、人々からの賞賛も受けることもできます。すごく理不尽な世界だと思いました。
「悪」は善を食い尽くす力があることを認めざるを得ません。暴力は人を殺す力があり、愛をする人には武力がないからです。言葉も善良な人は相手を高めることばかり話すけれども、悪は相手を低く見て冒涜し、悪口を言います。
この力の差は歴然です。悪はいつも傷を与える力があります。だから摂理に来る前は、「どうして良いことは悪いことに埋もれるのだろうか。なんでこんな世界になってしまったんだ?」と幼いなりに考えて悲しく思いました。
しかし、神様は私たちの小さな「善」をいつもご覧になっていました。
善良な人、良い心を持ち続けている人に、いつも時になって報いてくださいました。
その「報い方」も人それぞれです。「今日はいい日だった!」と思える祝福、「できるようになった!」という祝福、「ひらめいた!」という祝福、「願っていたことが成し遂げられた!」という祝福、いろんな祝福があります。
神様を知ると、理不尽さを感じなくなりました。
また先生はこのようにおっしゃいました。
すべてのことはご馳走を食べるようにしなさい。
おいしくたくさんあるご馳走でも、腹を満たすことだけを目的にして、
早く食べて終わらせようとしたら、その味を感じることができない。
ゆっくり一つ一つ味わいながら食べてこそ、
本来の味を感じて、食べる甲斐と喜びがある。
時になるまで、うみ疲れることありますよね。むしろその時が来ないことばかり考えて、「辛い、苦しい、わたしのやっていることはいつ報われるのだろうか」と言います。しかし考え方を変えてみたら、まるで御馳走を食べるように待てばいいのです(笑) このように考え方を変えれば、むしろ過程の方が大切だったということに気が付くでしょう。
時になるまでうみ疲れることなく善を行い、楽しみと喜びと感謝で過ごしていきましょう!