涙が中々止まらない。
でも、もう戻ってこないから、
せめて記事に残したいな。
…
私には大好きなお婆ちゃんが二人いる。
一人は母方のお婆ちゃん。
昔踏切の近くに住んでいたそうで、踏切の音をイメージして
「カンカンおばあちゃん」と呼んでいた。
おばあちゃんは会うたびに「いつも麦ちゃんのために、家族のために天に祈っていたのよ」と、話してくれた。
また、おばあちゃん家に行くたびに、
いつも多くの食べ物をふるまってくれ、関心を寄せてくれた。
おばあちゃん家から帰るときは、
私の姿が見えなくなるまでずっと立って、手を振ってくれた。
カンカンおばあちゃん…2014年の冬、この世を他界した…。
そして、もうひとりの大好きなおばあちゃん…
それが父方のおばあちゃんだ。
隣の家に住んでいたので「隣のおばあちゃん」と呼んでいた。
この記事に書いたように、おばあちゃんはいつも
「私は幸せだ」と話し、前向きで明るく、私にもたくさん幸せを分けてくれた。
そんなおばあちゃんも
昨日、2019年9月13日に、この世を他界した…。
愛するおばあちゃん
私が生まれた時には、父方、母方どちらのお父さんも亡くなっていた為、
おじいちゃんと過ごした記憶はない。
その代わり、私はおばあちゃんにとても愛されて育った。
子供の頃、二人のおばあちゃんにどれほどお世話になったかわからない。
そして子供ながらに、
「愛」を学んだのがおばあちゃんの存在だったと思う。
隣のおばあちゃんは、隣に住んでいたので、私達姉妹そろってとてもお世話になった。
昔、家が少し荒れていた時は、姉妹そろっておばあちゃん家によく逃げ込んだ笑
おばあちゃん家に行けば、必ずお菓子があった。
冷蔵庫を開ければ、ゼリーも何種類もあったし、プリンも3個入りのものもあれば、焼きプリンのような大きなプリンもあった。
極めつけはピルクル←
私は毎日ピルクルを飲みすぎて、机に空のピルクルをピラミッドのように積み重ねてはおばあちゃんに見せびらかしていたと思う…恥
(案の定小学三年生の頃は激太りして大変なことになった笑)
また、夕方くらいになると、おばあちゃん特製のオムレツも作ってくれた。
おばあちゃんは昔、洋食屋さんに勤めていたそうで、とても美味しいオムレツだった。
卵に砂糖を入れてかき混ぜている最中、よくぺろりと舐めて味見していたな←
おばあちゃんはいつも白い割烹着(かっぽうぎ)を着ていて、
着物姿が多かった。
細くて小さいのに、背筋はぴんとしていて、健康そのもの。
病気は全くしなかったし、死ぬまで体のどこも悪いものはなかったそうだ。
薬も飲まなかったから、臓器がとてもきれいだとお医者さんが話していた。
そんなおばあちゃんだから
一生、生きているんじゃないかと思った。
でも、そんなはずは、ないんだな…
8月、104歳の誕生日を迎えたけれど、
だんだんと食べ物を口にしなくなって、
ついに昨日、亡くなってしまった…。
…
おばあちゃんがまだ隣に住んでいた時、ほとんど顔を合わせることができなかった。
私もみんなも、忙しくしていて、隣に住んでいたのに、ほとんど顔を合わせてあげることができなかった。
もしそのまま亡くなってしまったら、ものすごく後悔したかもしれない。
でも、神様は不思議なことに、おばあちゃんと過ごす時間をたくさん与えてくださった。
それがこの半年の出来事だった。
神様がくださった半年
今年3月からおばあちゃんは施設に入ることになった。
過去に通っていたデイサービスのような施設ではなく、ずっと住まう施設だ。
「一人だとかわいそうだから、顔を出してあげてね。」
母の一言があってから、家族それぞれ、頻繁に施設に足を運ぶようになった。
私は2周間に1回くらいのペースで、主に土曜日に足を運んだ。
おばあちゃんは顔を合わせるごとに「わあ〜〜!!!よくきたねえ〜〜」と本当に喜んでくれた。時たま目に涙を浮かべるほどだった。
でも、おそらく私が誰なのかはよく分かってはいないと思う…笑
名前を伝えたら、繰り返し麦ちゃん麦ちゃんと話してくれるけれども、
麦ちゃんがどこの誰かはきっと分かっていないだろう。
それでも会うととても嬉しそうに「私は幸せものよ」と話してくれて、その姿に私はいつも癒やされていた。
「いつも何食べてるの〜て言われるのよ」
「朝はパン食」
「どうやってここまで来たの?」
「こうやって話せることが幸せ」
「ありがとう」
「ベリーグッド!」
「また来てね」
おばあちゃんが話す内容はいつも決まっていた。
こちらが何か新しい会話をしなければ、決まって同じ会話だったし、
新しい会話をなげかけても「いつも何食べてるの〜て言われるのよ」に戻ってくる…笑
またおばあちゃんは時々英語を使う…笑
「サンキュー」「グー」「ベリーグッド」
定期的に検診に来てくれるお医者さんの前でも親指を立てて
流暢に「グー!」と反応を見せたそうだ笑
そして亡くなる朝も、スタッフさんの言葉に対して「グー」と答えたと聞いた。
見ていなくても、その姿が思い浮かぶ…。
最後に会った日〜9月7日の思い出〜
私が生前のおばあちゃんを最後に見たのは9月7日だった。
その日は名古屋に遊びに行く日だったのだが、名古屋に行く前に必ず顔を合わせていこうと感動があって、施設に向かった。
あの時…
本当に衝撃を受ける出来事だった…。
私がおばあちゃんの部屋に入ってすぐ、苦しい表情のおばあちゃんがベッドに横たわっていた。さらに部屋の警告アラームが部屋や廊下に響き渡って、着いたばかりの私はひどく動揺した。
その時私は一人で訪問していて、おばあちゃんの状況を見てどうしたらいいのか分からず、おばあちゃん?おばあちゃん??と声をかけるので精一杯だった。
何がどうしてしまったのだろう?!
苦しむおばあちゃんの前で、どう判断していいかわからない私は、ただおばあちゃんの頭に手を当てて祈り、スタッフさんを呼ぶためにてんやわんやしていた。
その時、スタッフさんが数分してようやく来てくれたのだが、
その時の対応が今でも自分の中では衝撃として覚えている…。
おばあちゃんは、食べることを拒否するようになっていたけれども、
無理やり食べさせることはしないで 自然な形で亡くなる方向で、家族や親戚で決めていた。
だから医学的に栄養をお腹に入れたりとかはしないで、
食べることはただおばあちゃんの意志のままに任せる形だったのだ。
だからその時、苦しむおばあちゃんを前に、駆けつけたスタッフさんも「ああ…」という表情をしていて、こう話した。
「あの、ご存知ですか?(自然死することを)」
「もう、だんだんとそうなっていきますから…」
その時の一語一句は正確には覚えていないけれども、私にとっては、その一言がとても衝撃的だった。
どういう状態かも見る前に、諦め半分というような…
おばあちゃんはまだ苦しんでいるというのに…
「せめてどういう状態か見てくれませんか」
そう話してスタッフさんが診てくれたのですが、結果的には、寝違えて首が痛くて苦しんでいたことだと分かった。
内心安心したのと同時に、私はとても、悲しい気持ちになった。
おばあちゃんを生かすことは、もうできないのか…。
私はその時、ただ祈ることしかできなかった。
幸い部屋に来たのは私一人だったし、おばあちゃんも苦しい表情だったけれども寝ていたから、
思う存分、泣いて泣いて祈りに祈った。
おばあちゃんとの経緯を思い出しては泣いて、
生かしてほしい、その霊まで神様どうか生かしてほしい。
そのようだったか…頭に手をあて、片方はおばあちゃんの手を握りしめて、
ひたすらお祈りした。
そして時々おばあちゃんの耳元で声をかけると、
おばあちゃんは何かボソボソと答えてくれていた。
でも聞こえなくて「え?なんて言ったの〜?」て声をかけると、
おばあちゃんは渾身の力を込めて
「ありがとう〜〜〜!!!!」
と大きな声で答えてくれた…
その声を今でも忘れられない。
本当に大きな声で
かすれる声で
「ありがとう〜〜〜!!!!」と。
その後「私、これから名古屋に行くんだよ〜」と話すと、大きな声で
「また来てね〜〜〜!!!!」
と…
「うん、また会おうね〜〜
おばあちゃん、元気でいるんだよ〜〜〜!!!」
そう話したのが最後だった。
でも、その時私の中で、
なんとなく、これがおばあちゃんと最後になるんじゃないかと思った…。
あの部屋を出るのが、少し、ためらわれたけれども…
その足で、そのまま名古屋に向かうことにした…
また、会えるよね…そう思いつつ…
14日土曜日
もう一度母と姉と私でおばあちゃんに会いに行く予定だった…
けれども前日の13日…
おばあちゃんは、息を引き取った…
私は仕事中で、母からの知らせを聞いて、
本当に、信じられない気持ちだった…
でも、神様は十分機会をくださっていたと、それだけは感じた。
半年間、おばあちゃんのもとに行き、会って対話し、
心触れ合った期間…
そしておばあちゃんのために、集中してお祈りすることができた
この期間…
神様が与えてくださったことに、今は深く感謝したい。
そして続けておばあちゃんのために祈り、
おばあちゃんができなかった分、
私の体を通して、行っていこう。そう思った。
自分自身を、見つめ返しながら
続けて頑張っていきます。
たくさんの愛をくれた
愛するおばあちゃん。
本当にありがとう。
本当にありがとう。
愛しているよ。
本当に、愛しているよ。
永遠に。
最後までだよ。
また会おうね。