仕事で大クレームがありました。
私が回るエリアで起こったことですが、担当してくださっている同僚の方が、とあるミスをしてしまって、取引先の方を怒らせてしまいました・・・。
私はあわわわ、とドキドキしながら、それでも今週の御言葉は忘れないと思って、心に何度も反復させました。
「雑草をかきわける精神だ!!何が起こっても、自分が自分を縛らない!!!」
今週私がもっとも心で唱えた言葉です笑
<人生>はちょうど「山の中の雑草をかき分けていくこと」と同じです。 雑草が行く道を阻(はば)んでいても、‐阻むために生えたのではなく、存在するために伸びているのだし、‐自分がその道を行くから雑草に阻まれるのだから、強く大胆にかき分けて行かなければなりません。(摂理の御言葉より)
しかし御言葉の威力はとてもすごいです。以前より全然心配になりません。心を縛る考えが、なくなっていきました。
さて、今日はその取引先に行く用事があったので、朝から祈っておりました。
「神様、これこれこんなことがありましたが、ミスがあったことはその人だけでなく、自分ももう少し管理できた部分もありました。悔い改めます。神様、どうか今日、相手の方と会いますが、どうかお互いに赦しあえるように助けてください。私もミスをした方のことを赦します。責めません。私も悪いですから。どうか取引先の方も赦しの心を持てるように助けてください。平和に、一番いいようになるように助けてください」
さて、この日はとてもいい天気で、相手の取引先に向かうときも、不思議と緊張しませんでした。そして心のなかで対話をしました。
「神様、これから怒られてきます。大丈夫ですよね、とって食われるわけではないですし^^;」
そしてもう一度お祈りしてから、その人とお会いすることになりました。第一声から「○○のことで大変申し訳ございませんでした」とお詫びすると、相手は「ああ」とわかった表情になって、そのまま普通に対応されました。
「こっちも怒られました」
その人はそれしかおっしゃいませんでした。あとは本当にいつも通り・・・。怒る様子もありませんでした。私はそのことにむしろドキドキしながら、営業を終えました。
「わあ・・・・」
主よ、怒られると思っていましたが、怒られませんでした・・・。嫌味も言われませんでした・・・。
赦してくださって本当に感謝します・・・(T_T)
私は思いました。人間同士「赦し」さえするなら、憎しみも争いも起こらないんじゃないかって。お互いに間違いがあったとしても、赦しさえするならば、それでもう、終わりなのです。互いにいがみ合うこともしないで、苦しむこともしないで、赦せば、心が解かれます。
赦さなければ、自分自身を縛りつけて、なかなか出てこれなくなります。でも、赦したらぱっと出てこれるのです。
神様が2000年前から教えてくださった平和の秘訣です。
あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい(ルカによる福音書17章3節〜4節)
また、今週の御言葉にはこうありました。
自分はできない、問題がある、罪を犯した、弱い、自信がないと言って落胆し諦めて、<自分の心と体>を縛り、<自分の生>を放り投げて、活動しなければ、人生が完全に負けるようになります。 悔い改めるべきことを悔い改めて、自分を放しておいて、再び立ち上がらなければなりません。(摂理の御言葉より)
悪いことは悔い改めて、謝罪すること。
心からそのように謝罪したならば、あとはもう一度立ち上がって行かなければいけません。
被害を受けた側が一番大変かもしれませんが、それでも赦すことで相手の心を生かすようになるのです・・・。
それしか互いに生きる道、平和の道がないのです・・・。
キリストが十字架の犠牲の道を行ったのは、それしか互いに生きる道がなかったからでした・・・。神様の御心をなすためにも、人間が生きるためにも、もっとも清くて純真なキリストが、犠牲の代価を支払うしかなかったのです。それが「赦し」でした。
自動車の事故で人が怪我をしたり命を落としたりしますが、結局人間ができる最高の謝罪は、心から悔い改めること、あとは命の次に大切なお金による賠償です。
私達ができる賠償というのは、それが限界なのだと思いました。このやろうと言って怪我をさせたり、命を断つことで賠償することは、目には目を歯には歯をの精神で、憎しみと争いがエンドレスに続きます。それでは、いけないということを、もう私たちは知っています。
赦しの心が平和をつくる。これは間違いなく、どこの国にも通じる真理だなと思うしかないのでした。