帰り道、
コロンと転がっていた紙パックを拾ってコンビニのゴミ捨て場に捨てました。
また歩いていると、植木鉢が風で倒されていたので、立て直しました。
これを通して、しみじみと考えました。
コロンと転がっていた時、わたしを助けてくれたのは誰だろう・・・?
風でなぎ倒されていたときに、立て直してくれた人は誰だろう・・・?
社会で生きていると、コロンと転がっていても誰も拾ってくれないこともあるし、
なぎ倒されていても手を差し伸べてくれるひともいないこともあります。
目に見える人に期待してずーっと待ってみるけど、誰も来ないから
寂しくなって、泣いて、わびしい気持ちになります。
そんな風に見えない人も、実は心がなぎ倒されてしまっていて、
起き上がろうとするけれどもできない人もいます。
ただ、目にそう見えないだけで、心はすっからかんになってしまった人も多いと思います。
私も今日は少し心がすっからかんというか、吸い取られてしまったなあと思って、
コロンところがる紙パックのような気持ちでいました。
それで、紙パックを拾いました。
また、なぎ倒された植木鉢も立て直しました。
神様はこのように私を拾ってくれたし、
なぎ倒された心を立て直してくださったんだな。
そのことを思い出しました。
またもう一つ考えました。
私たちは目に見えるものを通して力を受けることもあるけれども、目に見えるから力を失うこともあります。
鄭明析先生は、目に見える世界では絶望しかないその場所で、イキイキと生きています。
どうしてイキイキと生きられるのだろう・・・?
私は先生がとっても不思議です。
だってそもそも、先生にとって見えるものといったら「聖書」くらいです。
人はだいたい見えるものを信頼しますが、先生にとって信頼できるものをひとつあげるとしたら「聖書」しかありません。
しかし聖書一つで、どうやって私の運命を変えることができたのか、不思議でなりません。
心に力を与えるにしても、「神様」のことを話して、「これと同じくこうなんだ」と根本から力を与えてくださいましたが、
先生は何か参考書があるわけでもなく、先生にとって見えるものは聖書しかないけれども、先生は不思議なことに、多くの人の人生を変えるほどの偉業を成してしまいました。
私が何か資格を取るとしたら、多くの参考書を読んで勉強して、誰かの話を聞いて参考にして試験にのぞむでしょう。それでも不合格になることもあります。
でも先生は「聖書」しかありません。
あとは見えない「お祈り」「神様」
だから私にとって先生がもっとも不思議です。
現在も地球上の誰よりも人間らしく、元気な心で生きています。
どうしてその場所で今も多くの人に力を与え続けられるのか・・・?
どう考えてみても、おかしいです。
でも、そんなおかしな存在が、まぎれもなく鄭明析先生の生そのものです。
不思議だなあ。
そう思いながら帰ってきた麦わらでした。