聖書に「ダビデ」という人物が出てきます。
ダビデは多くの戦争を経験してきました。
そして多くの血を流しました。
ダビデには夢がありましたが、それが「神様の聖殿」をつくることでした。
ダビデはその夢を成したかったけれども、神様はそれを許諾しませんでした。
なぜでしょう?
神様のためなのに?
神様はおっしゃいました。
「あなたは多くの人の血を流した」
ダビデは神様の聖殿を建築することはできませんでしたが、
その夢は、息子のソロモンを通して成すことになりました。
この一連の話を聞きながら、とても深い話だなと思って聞いていました。
神様は、本当に筋が通っている。
ただ単に、聖殿をつくることを許諾されなかったのだな。
5:3「あなたの知られるとおり、父ダビデはその周囲にあった敵との戦いのゆえに、彼の神、主の名のために宮を建てることができず、主が彼らをその足の裏の下に置かれるのを待ちました。
5:5主が父ダビデに『おまえに代って、おまえの位に、わたしがつかせるおまえの子、その人がわが名のために宮を建てるであろう』と言われたように、わが神、主の名のために宮を建てようと思います。
列王記上5章3節〜5節
神様の聖なる宮、聖殿を建築しようとしたとき、神様から見た時ひっかかるものがあってはいけません。
神様がいつもいらっしゃるその場所をつくるには、つくる人間も清くなければならないのです。
神様がダビデについて語るときは、いつも喜びを持って話し、自慢されながら誇らしく語られるのにそんなダビデでも、聖殿を建築することは許しませんでした。
多くの人の血を流したからです。
先生も戦争に行かれました。
行きたくて行ったのではありません。
神様のことを最高に愛していたからこそ、「まさか私を戦争に送るだろうか?」と思っていた先生です。
しかし神様は先生を戦争に行かせました。そして先生は命の大切さを身を持って経験したと言います。
信じがたい話があります。
それは、先生が戦争で誰一人も殺さなかったという話です。
私が戦場に行っていたら、すぐに撃っていたと思います。
なぜなら怖いからです。
自分が戦場に行ったと想像してみると、銃声ひとつ、そのパンという音ひとつで人が死にます。
その音を聞く度に、私は怖くて草むらに隠れるか、もし目の前で銃口を向けられるならば、私も銃口を向けて、
撃ったか撃たれるかしたでしょう。
そんな怖い体験はしたことがないので分かりませんが、私は想像以上に臆病なので、
「敵を愛する」という言葉は思い浮かぶことは困難だった思います。
ところで先生は、敵を愛しました。
文字通り愛したのでした。
人を殺しませんでした。いつも捕虜にして捕まえたそうです。
殺してしまえば楽なのに、捕虜にして連れてくるから、同僚も困ったそうです。
またお互いに銃口を向き合う緊迫した場面に陥ったときもあったそうですが、
敵を愛しなさいという神様の言葉が聞こえて、見たら、敵が自分の妹に見えたそうです。
それで驚いて涙を流して敵を抱き締めたそうです。
戦場で、敵を抱き締めて、平和が起こりました。
先生が自然聖殿をつくりました。
先生が神様のために聖殿を建築したい、そう祈った時、
神様の答えは「OK」でした。
なぜなら、人の血を流さなかったからです。
ダビデですらも建てることを許諾されなかったのに、どうして先生はこのような大きな聖殿をつくれたでしょうか。
真実に神様を愛し、敵を愛したからです。
「戦争を終わらせるには、核兵器ではなく、敵を抱き締める愛だ」
家族を愛することも、大切なひと、たった一人を愛することだって難しいことなのに、
敵まで愛するから、
私はこの話を聞く度に、自分の胸深くに刻み、自分自身を省みます。