「できる」が個性ではない 【摂理と私*12】



私の悩みの一つに、
私の個性ってなんじゃろな?
という悩みがありました。
私は幅広く、比較的なんでもやれちゃうタイプです。
文章書ける、
絵も描ける、
ドラムも叩ける、
歌も歌える、
ハモりもできちゃう、
写真も撮れる、
スポーツも苦手意識があったけど、やればできる、
それで、摂理に来て一層「できる」が増えました。
しかし、「できる」けども、ものすごい上手なのかといったら、
そうではありません(*TーT)人(TーT*)
みんなそこそこ、並々にできるのです。
だから、自分は「できる」けども、
自分より上手い人が出てくると、
「ああ、私は出る幕ではないな」と
勝手に比較してしょげてしまう私がいました。
そんな自分が嫌だったけども、
実力はすぐにはつかないから、モヤモヤとしていました。
この比較癖をなんとかしたいな…
しかし、鄭明析(チョンミョンソク)先生が教えてくださった御言葉でこの問題が解かれました。
とんか御言葉だって?
先生はこうおっしゃいました。
やってみればみんな「できた」
やれば「できる」
やらなければ「できない」
全てのことはやさしかった。

どういう話でしょうか。
先生はそれこそなんでもできます
サッカーもできる、
絵も描ける、
指揮も振って、
自然の管理も上手で、
文字も素晴らしい。
スポーツは何をやっても上手だし、
先生の讃美はものすごいです笑
先生がこの御言葉でなんておっしゃったのかというと、
全てのことはやさしい。
全てのことは力を多く入れたらできない。力を抜いてやってこそ上手くできる。全てにおいてこれと同じくこうだ。
この原理の上に個性的にやることだ。


この御言葉を聞いて私ははっとさせられました。ああ、個性というのは「できる」ことではないのだと。
できることはやさしい。
やればみんなできるんだ。

その上に、それぞれ与えられた個性にそって行うことなんだと気付かされました。
人間は数千数万種類のことが「できる」んだと先生はおっしゃいました。
だからできるできないで自分を限定させるのではなく、その上に表現できる自分の個性があるから、その個性でもっと天に愛を捧げたらいいんだなと分かったのです(*´?`*)
摂理に来ると、こうだと思い込んでいた概念が崩れるから、縛られていたものから真実に自由になることができます!
本当に御子主に出会えたことに心から心から感謝しますっ(*´□`*)

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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]