最近自分は思いました。
いつだって私は自分の立場のことしか考えてないんだな。
仕事をしているといつも言われます。
「相手の立場に立って考えて話さないといけない」
これが本当に難しくて、普段の中でもあまりできていなかったんだなあと反省する毎日です。
鄭明析先生は、自分の立場を主張することはありません。
先生がもし自分の立場に立っていたならば、今まで10年間どうやって私たちのために御言葉を書き続けられたでしょうか。
狭くて、暗いその場所で、分かってくれる人がそばに一人も居なくて、
寂しさも感じ、痛い心も体も一人で感じ、
冬には厳しい寒さが押し寄せ、夏には耐えられない暑さが押し寄せ、
私たちのために苦悩され、涙も流し、赦してあげ、慰めてくれ、
ご自身の大変なこと、
辛いことは一切話さず、
どんなにご自身が行って得たことだとしても、ひたすら共にしてくださった聖三位を証されました。
先生は、自分の立場のことを全部置いて、聖三位の立場、相手(わたしたち)の立場を最優先になさいました。
それがどれほど難しいことなのか。
私には、到底できません。。
私は自分の立場ばかり話して、自分の立場のことばかり主張して、守り、努力することでいっぱいです。
もちろん、できることはないかと自分なりに努力はしました、、
でも、なかなか自分が捨てられないんだなあと思いました。
先生が10年の宣告を受けたとき、
先生はその時、神様に尋ねられました。
「私のことを愛してますか」
神様は答えられたといいます。
「あなたを一番愛している」
それで先生は力を受けて
「それならば大丈夫です」
と答えられました。
先生が意識されるのは、聖三位。
神様、聖霊様、御子の心。
その心がどんなに痛かったか。
自分の心が痛くても、まずは聖三位の心の痛みを慰め、わたしたちの心を慰めます。
真実なその姿を、直接見なくても、
御言葉を聞くだけで、感じます。
先生は、その場所で生活をするだけでなく、地球全世界のために祈られたし、毎日御言葉を送ってくださいました。
自分の立場だけを考えるなら、自分の生活だけすればいいです。
でも神様が願っていることは何か。
一人ひとりにしてあげられることは何か。
最大限、心と思いと命を尽くして、祈り、御言葉を書き、
詩を書き、絵を描き、
賛美歌をつくり、一人ひとりに必要な助言もしてくださいました。
どうしてそこまでできるのか。
どうしているだけでも耐え難い苦痛を耐え忍ぶことができたのか。
ひたすら聖三位が共にしなければ、
先生という方が今、生きて健康でいらっしゃることの説明ができないでしょう。
先生はひたすら感謝を忘れず、
聖三位と私たちのために10年を過ごしてこられたから、私も続けて摂理で御言葉を聞いています。
先生の立場を知ろうとしたとき、
もっと分かることがあるんだろな。