オヤビンとコブン

漫画「愛って何や?」〜聖書の核心、神様の愛、愛の本質を学ぶ〜


    


今日は『愛』についてまとめてみようと思います^^

私たちは<愛>というと何を想像しますか?

恋人同士の愛、友人愛、家族愛・・・いろいろ思いつくと思いますが、私達が知っているのは「人間同士の愛」です。
しかし聖書では、人間同士の愛=兄弟愛についても書いてありますが、それ以上にもっと大きな愛について書かれています。

それが「神様の愛」です。

愛って何や?

愛の本質〜神様の愛〜

そもそも、<愛>って何でしょうか?

オヤビンも街中をうろつきながら、愛が何なのか疑問に思いました。恋人同士の愛も初めは熱烈ですが、心が冷めると喧嘩をし、憎み合います。

家族、友人、仕事仲間との愛も人間同士だから、限界を感じます。本当に真実な愛はこの世に存在するのでしょうか・・・?

聖書は愛の本質が書かれています。愛に関する聖句を引いてみましょう。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。コリント人Ⅰ13:4~8)

真の愛は妬むこともなく、柔和な心で接します。また、人を愛することを、自分を愛するよりもっと重んじます。これが神様の愛です。

あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。(マタイ5:46)

「あなたたちは愛する人ばかりを愛するんじゃなくて、愛さない人も公平に愛しなさい」とおっしゃいました。

憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう。箴言10:12)

愛はすべての罪とがを覆い隠すと言いました。罪とがをつついたら愛ではありません。

これが<愛の本質>です。これが<神様の愛>です。キリストは神様の体になって人々を愛されましたが、ただ人間的な愛をしたのではなく、<神様の愛>で愛してくださったのです。

キリストの愛

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。(ヨハネ13:1)

イエス様は死ぬときまで、最後まで全人類を愛して亡くなりました。十字架の上でも愛して亡くなりました。

鄭明析先生はイエス様の愛についてわかりやすく説明してくださいました。

神様は愛の本体であり、イエス様はその愛を世の中のみんなに実践した存在者だ。

愛したら天国、憎んだら戦い、戦争だ。戦争というのは特別に予定されているわけではない。憎んだらただちに戦い、戦争になる。

愛は救いを与える救い主だと言える。心で、考えで、行いで、真に愛することが真の愛だ。

真の愛は神様の心だ。つまりキリストの心だ。

キリストが人を救う時、どういう力で救うだろうか。人を愛することで、愛の力を持っているのでできると言うほかない。

愛のない救い主はいないだろう。救い主にとっては真理と愛が天から貰った特権であり、使命だ。

愛の命綱で人を導き、救う。(鄭明析先生の説教の御言葉より)

兄弟愛

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。(マタイ18:21〜22)

イエス様は「兄弟同士も互いに愛しなさい」とおっしゃった。そして「七回ずつ七十回でも許して、愛してあげなさい」とおっしゃいました。

神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(ヨハネⅠ4:12)

兄弟同士が愛さなければ神様の愛はまっとうされない・・・。

神様を愛することはできても、人間を愛することが弱いのだと先生もおっしゃったことがあります。

ユダヤ宗教人たちは、神様を愛するところに心と思いと命を尽くしました。でも、兄弟を愛することができませんでした。もし兄弟を愛したならば、兄弟の中にいたイエス様のことも愛したはずです。しかし真実に兄弟を愛することができなかったから、憎んで排斥し、十字架につけてしまいました。

だから兄弟を愛することが、神様の愛を実現することになります。

第一に神様を愛すること、第二に兄弟を愛すること

聖書のもっとも核心となる聖句を引いてみましょう。

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている(マタイ22:36〜40)

第一に神様を愛すること、そして第二に兄弟を愛することだとおっしゃいました。

ソドムとゴモラのお話はご存知でしょうか。ソドムの地では、兄弟のことはたくさん愛しました。でも、神様を愛さなくて裁かれてしまいました。ユダヤ人たちは神様は愛したけれども兄弟を愛しませんでした。そして結果的にメシアを十字架につけて、神様の前で上手く迎えることができませんでした。だから、この2つのいましめを行うことがとても大切なのです。

愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。(ローマ人13:10)

「愛は律法の完成だ」と使徒パウロもおっしゃいました。神様を命を懸けて愛するならば、そこには法もいらないのです。

私も、摂理で「愛」をたくさん学びました。

愛は無条件の愛。とがめない愛。諦めない愛だと知りました。

神様は何があっても最後まで諦めない。ちっぽけな自分自身のことも、たった一人の恋人だと思って愛してくださいました。

先生には会ったことありません。でもいつも御言葉を通して、神様の愛を教えてくださるから、私も神様を愛したいと思うようになりました。

愛を受けたから、私も人々に愛で接するようになりたい。

でも実際はなかなか上手くいきません。自分の中に未熟な心が残っていて、素直になれないことが多いから…。でも、続けて愛を学んで挑戦していきたい、その心は変わりません。摂理で教わった神様の愛、それを先生が教えてくださったから私も続けて努力したいと思うのです。

鄭明析先生の御言葉「神様を愛しなさい」

最後に鄭明析先生が語られた御言葉を紹介して終わりたいと思います^^

聖書にいろんな話があるけれども、イエス様が来られていろんな教訓、いろんな御言葉をたくさん伝えました。

その核は何か?

結局は、「神様を愛しなさい」ということです。

私が誰についてたくさん話をしましたか?神様について話をしました。

神様が一番偉大で、一番神様が、一番大きな方、必要な存在者なのに、皆さんが神様についてわかっていませんでした。それで私が神様について高尚に深く悟ってきて、皆さんに教えました。そのように教えたら、皆さんが神様と何をしたくなりますか?

神様を愛したくなったでしょう。

「信じたいというよりは愛したい」という人がたくさんいると思います。

なぜかというと、神様が皆さんをそういうふうに愛している、神様が皆さんに働きかけて共にしてくれたということを話してあげたから。「ああ、私をそういうふうに愛してくださるんだったら、神様が私を大切に思って愛してくださるんだったら、私も黙ってはいられない」。

そういう話をしてあげたので、皆さんがそれを信じるようになったし、神様を信じるように、愛するようになりました。

私がたくさん御言葉を伝え、話をしても、皆さんが神様を愛さないんだったら何にもならないということです。何にもなりません。

青春を捧げて皆さんに真理を教え、テドゥン山ヨンムンコルで30年もの長い間吹雪に吹かれて冷たい風に当たりながら悟ったことを教えたとしても、皆さんが神様を愛さないんだったら私は無駄なことをしたということです。皆さんが今も神様を愛さないんだったら、私は無駄なことをしたということです。

私は、神様を愛さなければ、御言葉をもっていくら走っても無駄です。天と愛するその縁が切れたなら何でもないということです。

人を愛するそういう精神と実践がなければ、御言葉を学んだことも何にもなりません。私が悟ったこと、人類が悟れなかった真理を持ってきたとしても、何でもないということです。それのことをするために悟ってきた。それのためにもがいたということです。

このように皆さんもしなさいということです。必ずそうしなければなりません。

(鄭明析先生の説教の御言葉より)

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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]