運転免許取得まで日記

<最高速度>は決まっていても、<安全な速度>は決まっていない件について


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最高速度と安全な速度

教習所に地道に通い続ける麦わらですが、
最近は「最高速度」について学びました。

速度はエーイと言ってどんどん出していいものではありません。必ず「ルール」があります。
それを表す言葉が「規制速度」「法定速度」といいます。

規制速度は、よく「30」とか「50」とか書かれた丸い看板がありますよね。

これが「規制速度」です。「30」なら「30㎞/h」出しちゃいけないというのは学ばなくてもなんとなくわかります。

そこで教官は「曲がりくねった道」を出して見せてくれました。

「さて、ここはどれくらいの速度で走って良いでしょう?」

よく見てみると、「規制速度」を表す看板がありません。
つまり、規制速度がないから、ブイーンと速度の制限なく通っても良いのか?
麦わらさんは考えました。

でも速度を出すのはあまりにも危ない。
細い道で曲がった道ですから、私なら30㎞/h出しても事故ります。
教官がひとりひとりを当てて答えさせるようにしていましたが、どの子もみんな
「10〜20㎞/h」くらいと答えていました。

「これを学ぶのが教習所だ」と教官は答えました。

それで「法定速度」について学びました。これは標識や標示によって最高速度が指定されていない道路
だけれども、車の種類によって最高速度が定められているから、その最高速度を学ぶ時間でした。

しかし見てみるとどうでしょう。
原動機付自転車(原チャ)の最高速度は「30㎞/h」
その他の自動車はみんな最高速度は「60㎞/h」です!

改めて教官は問いました。

「では、この(曲がりくねった道)どれくらいの速度で走りますかか?」

60㎞/hが最高速度だから、つまり60㎞/hの速度は出しても法律上問題はないということにはなる。
でも、そのスピードを出したら明らかに「事故」になります。
なので今回もどの子も「10〜20㎞/h」くらいと答えていました。

つまり、規制速度、法定速度とは関係のないところをみんな心配していたのです。

それが<安全な運転>でした。

安全な速度は教科書には書いていない

麦わらさんはこの当たりがとても神妙に聞こえました。
最高速度は規制されても、安全な速度は定義することはできない。
当然そうですよね。道路状況、天気の状況によって様々異なりますから、こういう時はこの速度、こういう時はこの速度と
いちいち定めることはできません。

ところでそうなると、<安全な運転><安全な速度>は自分が判断しなければならないということです。

このあと何について学んだのかというと、「停止距離」についてです。
「車は急に止まれない」と小さい頃から言われ続けていましたが、車に乗る人は「どれくらい止まれないのか?」を
知っておく必要があります。自分が判断しなければいけないのです。

危険を感じてからブレーキをかけ、実際にブレーキがきき始まるまでの間の距離が「空走距離」で
ブレーキがきき始めてから停止するまでの間に走る距離が「制動距離」といいますが、
これを普段乗っている一人ひとりが分かって運転しなければなりません。

この話を聞いて思いました。

<安全な速度><安全な生活><安全な信仰>

これらのことは法律で規制されるというよりも「自分の<良心>で判断する」ものが多いのだと。

速度を出しすぎて事故に遭った方はたくさんいます。「大きい道路だし、誰もいないし、スピード出したいし」そういう
ちょっとした心の緩みが行ってはいけない線を越えるようになります。

生活もどうでしょう。「やってもばれないし、これくらいは大丈夫だろう」といって、酒を飲みタバコを吸い刺激的なものを求めて
ギャンブルにもハマることもできるし、また人の悪口を言ったり、根も葉もない話を広げたりもできます。「明日やればいいや」と言って、今日やらなければならないことを明日に回し、できることもできなくなるようにして、生活がだんだんと怠惰にすることもできます。
怠惰の制限があるでしょうか。生活を健全かつ安全にするために原則守らなければならない法律というのは、最低限のものでしかありません。まるでこの「法定速度」のようです。

安全な信仰について一つ違うのは、神様の御言葉があることです。言うなれば、神様の<安全な信仰ができる法>はあります。
でもそれを守るか守らないかはひとりひとりの<良心>に委ねられているのです。
だから聞いて守る人は安全ですが、聞いてもやらない人、守らない人は、目立って大きく見えなくても、徐々に損をしてしまうことが現実出てしまいます。でもこれも上記に書いた<安全な速度><安全な生活>におけるリスクと似ています。自分次第なのです。自分がしっかりとやれば<安全>だけでなく、神様が共にすればさらに<栄える>ことにもなります。

心が生きていなければならない

MabelAmber / Pixabay

教習所の話から大きく人生についての話になってしまいました?
でも今起こるニュースを見てみると、起こっている問題は「良心」とはかけ離れた間違った考えによる問題が多いです。
盛り土の話もそうです。様々な殺人事件もそうです。女子大生の暴行事件もそうだし、世界の政治問題もそうです。
心が本当に生きているならば、絶対にそのようなことはしません。心が緩んでしまったようです。

先生がどうしていつも車の運転を比喩にして御言葉にするのか少しわかるような気がしました。
それは全て「命の生死」と関わっているからです。

生活の中で心がふと緩むこと、傾きたくなることがありますよね。それは日常的にありえることではあります。でも、人生が運転することだとしたら、生半可な運転はできませんよね。気を引き締めて乗らないと、いつどこでどんな事故が起こるか分かりません。でもこれは、運転していなくても気をつけなければいけないことです。例えば人と対話するにしても、間違った言葉を伝えたら事故に遭うようなことになります。また、間違った言葉を信じたら、これの事故に遭うようなことです。

私たちは普段当たり前のように生活していますが、実は運転をするように気を引き締めて、心を生かさなければ、簡単に事故に遭うような生活を送ってしまうことがあるのです。

車の御言葉コーナー

それでは、最近の伝えられたもの車の御言葉を紹介します(^^)

<自分の考え>をはっきりと運転しなさい!車の運転を間違ったら事故が起こるように、
<考えの運転>を間違ったら事故が起こる。

<神様の法>は「交通法」と同じだ。 中央線を越えて行ったら交通法から外れて事故が起こるように、
神様の法を越えて行ったら事故が起こる。

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この御言葉を聞いて感じたのですが、「中央線」って越えるのそんなに難しくないですよね!
壁があるわけでもないし、車で踏みつけてちょっとハンドルを傾けたら、すぐに中央線を越えるようになります。
私達の心もそうなのだなと思いました。
良心という中央線を越えることは、いとも簡単なことです。
これを越えないように、御言葉で考えで、また神様が直接働きかけて守ってくださっていますから、
続けて安全に、毎日を過ごしていきましょう!

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ABOUT ME
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麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]