信仰のもがき

うまくできなくても行ったことが大きい


私は摂理に来る前もいろいろとやりたがりました。

その時自分で一眼レフを買って、ブログを続けて更新したりもしたし、
小説を書いて、心に湧き上がる想いをなんとかして伝えようとしました。
ところで何が辛かったのかというと、

「反応がない」ことでした。

また、自信がなかったので苦しかったし、「見られて恥ずかしい」と思って縮こまったし、
やりたくてもやれないからジレンマに駆られていたし、つくったところで見る人もいないから辛かったです。

摂理に来てからも、しばらくはそうだったんです。
「見られるの恥ずかしいな」
でも摂理に来たあとは、せめて神様が見てくれることだけでも希望でした笑

「私が行うことは、神様が見てくれればいいんだ」

何か表現しても、人に見せられず、反応がないのに何が面白いでしょうか。
でも、摂理に来てからはせめて神様が見てくださるとわかったので、表現することの限界が乗り越えられました。
誰も見ていなくても、神様が見てくれたらそれでいいと思いました。私と神様だけの世界でした。

でもそのような段階にもこらえきれなくなる時が来ました。

どうしても伝えたい!この思いが爆発して、作品を書きました。
たった一人のために書きました。なんとかして伝えたくて・・・。
その作品を読んでもらうために試行錯誤しました。つくった作品を冊子にしようとして、何百枚も紙を無駄遣いしました。
何度も失敗したけれども、ようやく冊子がつくれて、めくれるような感じに仕上げました。

結局つくったのは2冊で、1冊はどうしても伝えたかったその人に、もう1冊は自分が持ち、いつか誰かが読んでくれたらいいなあと思いました。そしてその1冊をまずはお母さんに読んでもらいました。そしてお父さんに読んでもらい、続いて教会のメンバーでもっとも心を開ける人からはじめて笑 それがメンバーの自宅にそれを置かれるようになり、いろんな人が目を通すようになりました。

ドキドキしました。
こんなに人に自分の作品を読んでもらうことなんてなかったからです。
自分にとってはあまりにも大きな挑戦でした。
高い壁のように思っていたことだったので、心配不安が波のように続きました。

「文章うまくないかな」

「何か言われるかな」

「面白くなかったかな」

「伝わったかな。うまく伝えきれなかったかな」

私は本当にナイーブな心を持っていました。自信がなくて、隠れたくなりました。
誰かに評価されることを恐れました。怖かったです。それが2014年3月頃だったと思います。
私が徐々に抜け出せるようになったのは、その頃だったと思います。

ブロクに数十回と書きましたが、その作品は結局映画になって、とても記念に残る作品となりました。

今までは自分一人の世界だったのに、
神様に見てもらうようになって、二人の世界になりました。
それから伝えたかったその人に渡し、それから一人、また一人と増えて、
数十人の前で映画となって羽ばたきました。

それを通して、私は自分の可能性に気がつくようになったし、
自分が好きになりました。またひとつ乗り越えました。
弱々しかった私が、ひとつでも下手くそでも行って、表現したその1つのことを通して、
数十万のものを得たみたいでした。

作っているときは、こんなことして何の意味があるのかなと思っていたけれど、
こんなに世界は広がったのです。
乗り越えられなかったものを乗り越えて得た「精神」が、今の自分をより行わせます。

やればできるし、やらなければできない。

先生の言葉です。
やればできました。行ってきたものは絶対に無駄にはなりません。
行ったことは大きなことです。誰がなんと言おうと、行ったことは自負心です。糧です。
小さくてもいいんです。小さくてもやりつづければ徐々に大きくなりますから!

諦めずに最後まで、チャレンジしていきましょう!

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう


ABOUT ME
アバター画像
麦わら
東京都民。児童館で働く傍ら社会問題を勉強しながら作品「オヤビンとコブン」を書いています。子育て支援員。保育士や子育て教育支援カウンセラーを勉強中。お問い合わせ・感想はLINEでもどうぞ![プロフィール詳細はこちら]