スマホが殺した「家族の会話」「仲間の時間」を読んで・・・
対話の大切さ
上記の記事を読んで、アーメン、本当にそうだなと感じました。
今や友達とファミレスに行っても、片手にスマホは外せません。一緒に食べて、智に空間をわかちあっているのに、考えは別々の空間に飛んで行っています。
私は友達と2人の時間がとても好きでした。その友達について知ることが好きだし、その友達に関わるいろんな話を聞くのも好きです。自分の話をするのも好きだけれども、お互いに深い話ができたときの、あの何ともいえない、心が共鳴する感覚がとても好きです。
ところが最近はそういう話に行くまでに、幾度となくスマホがその道を塞ぐのを感じます。片方がスマホをいじりだすと、もう片方は何をしたらいいのか分かりません。だからその人もスマホをいじるしかありません。すると、同じ空間にいながらも断絶されているようで、話しの流れがぷっつりと途切れます。
こんなことを書きながら、聖三位から見たときの私もそうなのだなと感じました。
私もスマホをよく見ます。スマホをいじりだすと、目的を果たすまで離しません。そして考えもその方向に凝り固まっているので、まわりが見えません。
そういうとき、神様は、ちょうど同じ空間にいる愛する恋人が、話しの途中にスマホをいじりだすような立場にいらっしゃるような気がしました。
待っている間の、なんともぎこちない感覚。話したいけど話しだせないし、待つにしてもそわそわしてしまいます。
スマホが殺した「家族の会話」「仲間の会話」「天との対話」・・・対話がいかに大切でしょうか。対話がなくなったら、愛が冷め、友情が冷め、他人同士になってしまいます。天ともそうです。
最近鄭明析先生は「考えなさい」とおっしゃいました。考えは実際は言葉だから、「考えなさい」ということは「対話しなさい」ということと同じだとおっしゃいました。そう思うと、大切な人のことも、天のこともどれくらい考えているのかなあと思います。
考えること、対話すること、もう一度取り戻すひとりひとりになりますように。